足利持氏 あしかがもちうじ (A.D.1398〜A.D.1439)
室町幕府第4代鎌倉公方(在位1409〜 1439)。5代将軍義量が早世しのち、義持は後継者を定めぬまま死去し、くじ引きによって義持の弟、僧であった義教が将軍となると、これを「還俗将軍」と軽んじ、次第に幕府との対立姿勢を強め、1438年(永享10)、幕府の征討軍と戦う(永享の乱)が敗れ、自害。
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足利持氏
将軍職を夢見た鎌倉公方
4代鎌倉公方。5代将軍義量が病死し将軍職が空職となると、6代将軍の座を望んだ。やがて僧であった義教が将軍となると、これを「還俗将軍」と軽んじ、次第に幕府との対立姿勢を強め、ついに1438年(永享10)、幕府の征討軍と戦うが敗れ、自害する。
参考 ビジュアル版 日本史1000人 上巻
武家社会の成長
幕府の衰退と庶民の台頭
幕府の動揺と応仁の乱
義持・義教期の戦乱地図 ©世界の歴史まっぷ
足利義満のあとを継いだ将軍
足利義持時代の幕府政治は、将軍と有力守護の勢力均衡が保たれ、比較的安定していたが、1416(応永23)年には
鎌倉公方足利持氏(1398~1439)に不平をもっていた前関東
管領上杉氏憲(
禅秀 ?〜1417)が反乱をおこし、幕府に鎮圧される事件もおきている(
上杉禅秀の乱)。5代将軍
足利義量(1407〜25)が早世したのち、義持は後継者を定めぬまま死去したため、くじ引きによって義持の弟の
足利義教(1394~1441)が6代将軍に選ばれた。義教は幕府における将軍権力の強化をねらって、将軍に服従しない者をすべて力でおさえようとしたため、幕府からの自立意識が強かった鎌倉府との関係が悪化し、11438(永享10)年、鎌倉公方足利持氏と関東管領
上杉憲実(1410〜66)が対立したのを機に、将軍義教は上杉憲実支援の名目で関東へ討伐軍を送り、翌年、足利持氏を討ち減ぼした(
永享の乱)。
永享の乱後の関東では、1440(永享12)年に下総の
結城氏朝が
足利持氏の遺子を迎えて下総の結城城に立てこもったが、翌年、幕府の支援を得た上杉軍の攻撃を受けて落城した(
結城合戦)。その後、嘉吉の変後の混乱に乗じて死をまぬがれた足利持氏の子
足利成氏(1434~97)が鎌倉公方となった。成氏も上杉氏と対立し、1454(享徳3)年に憲実の子で関東管領の
上杉憲忠(1433~ 54)を謀殺したのが引き金となって大乱がおこり(
享徳の乱)、以後、関東はほかの地域に先んじて戦国の世に突入することとなった。
足利氏系図
足利氏系図 ©世界の歴史まっぷ
参考
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