辛未洋擾
徳津鎮攻略を喜ぶ米将兵

辛未洋擾


辛未洋擾しんみょうじょう(シンミヤンヨ)

1871年におきた、1866年8月のジェネラル・シャーマン号事件の賠償と朝鮮開国を要求するべく、朝鮮に派遣したアメリカ艦隊への朝鮮の奇襲に端を発した交戦。

辛未洋擾

ジェネラル・シャーマン号事件
1866年8月、英国国教会宣教師兼通訳トーマスら英米系5人、中国人13人、マレー人3人の計21名の非戦闘員のみが乗船する蒸気帆船シャーマン号は、イギリス商社と契約し大同江を遡行中、干潮で動けなくなったところを襲撃され乗組員21名全員が殺害された。
辛未洋擾
発端
  • 1871年 清に駐在していたアメリカ公使のフレドリック・ローは、シャーマン号事件への謝罪と通商を求めてアジア艦隊に朝鮮派遣を命じる。
  • 同年4月 アメリカのアジア艦隊司令官ジョン・ロジャーズ (John Rodgers) は日本の長崎で艦隊を編成。
  • 同年5月 ロジャーズは旗艦コロラド (USS Colorado)、アラスカ (USS Alaska)、パロス (USS Palos)、モノカシー (USS Monocacy)、ベニシア (USS Benicia) の5隻からなる艦隊を率いて江華島に向かう。

襲撃

  • 1871年6月10日 米軍は江華島の草芝鎮と徳津鎮を襲撃する。
    草芝鎮と徳津鎮、6月11日には広城鎮を制圧する。

戦死者

  • 朝鮮軍 240名以上
  • 米軍 3名

写真家フェリーチェ・ベアト

この艦隊に同行していた写真家フェリーチェ・ベアトが撮影した写真は、朝鮮の風物を捉えた現存する最も初期の写真となる。

参考: Wikipedia

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