近藤勇
近藤勇(国立国会図書館蔵/近代日本人の肖像)©Public Domain

近藤勇


近藤勇 こんどういさみ( A.D.1834〜A.D.1868)

新撰組の局長。武蔵国多摩郡出身。池田屋事件など尊攘派取り締まりに活躍。戊辰戦争の際、下総国流山で捕らわれて刑死した。

近藤勇

新撰組の局長。武蔵国多摩郡出身。池田屋事件など尊攘派取り締まりに活躍。戊辰戦争の際、下総国流山で捕らわれて刑死した。

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最強剣客集団を率いた新撰組局長

新撰組見参! 池田屋事件での奮戦

京都守護職配下の治安維持部隊・新撰組が名をあげたのが池田屋事件である。内偵によって尊攘派志士のテロ計画を知った新選組は、1864年(元治1)6月5日夜、京の三条小橋の旅籠はたご・池田屋にいた志士たちを急襲した。捜索のため隊は二手に分かれており、池田屋に踏み込んだのは局長・近藤勇以下10名のみ。主人の様子に異変を察した近藤らが三階に駆け上がったところ30数名の志士たちと遭遇、壮絶な斬り合いになった。近藤は愛刀・虎徹こてつを手に先頭に立って戦い、1時間あまりの激闘の末、勝利をおさめたのは小勢の新撰組だった。討ち取り7名、負傷4名、捕縛23名。この事件で長州の吉田稔麿よしだとしまろ、肥後の宮部鼎蔵みやべていぞうら有力志士が闘死したことで明治維新が遅れたとも、逆に同志の奮起をうながして早まったともいわれる。

剣の腕前:近藤は竹刀を使う道場稽古は苦手だったが、真剣で戦うとめっぽう強かった。腹の底まで響く鋭い気合を発して白刃にも臆せず切り込んだというから、技よりも度胸の剣だったのだろう。

時代の趨勢すうせいに抗えず幕府に殉じた最期

多摩の豪農の出身である近藤勇は、天然理心流に入門し剣術を磨き、宗家・近藤周助の養子となり家督を継いだ。1863年(文久3)、14代将軍家茂の上洛警護のために幕府が浪士組を組織すると、試衛館一派6名とともに参加、京に上る。浪士組分裂後も京にとどまり、京都守護職・松平容保まつだいらかたもりの支配下に人って壬生浪士組みぶろうしぐみ(のち新撰組しんせんぐみと改称)を結成した。芹沢鴨せりざわかもの一党を粛清後、近藤が単独の局長となり、組織の実権を掌握。京の治安維持を掲げて尊攘派志士を取り締まり、池田屋事件禁門の変での働きを認められ、1867年(慶応3)、幕臣に取り立てられた。農民出身の身としては異例の出世である。しかし、同年10月に大政奉還が行われ、新撰組は存在意義を失う。翌年の鳥羽・伏見の戦いでは多くの隊士が戦死し、近藤は同志とともに幕府の軍艦に乗って江戸へと撤退。その後、幕命を受けて甲陽鎮撫隊を再編し、東上する新政府軍を迎え撃つため甲府に出陣する。だが新式銃火器で武装した新政府軍に敵うべくもなく、1日ともたずに敗走。下総流山に陣を移して機会をうかがうも、新政府軍に包囲されて投降した。1868年4月25日、勇は板橋の刑場で斬首される。武士としての切腹も許されず、首は板橋と三条河原でさらされた。剣をもって幕府への忠誠を呆たした近藤は、最期までその節義を貫いたのであった。

近藤には「醜女は貞淑」という持論があり、あまり器量がよくない清水家家臣・松井八十五郎の長女つねと結婚した。長女たまをもうけたつねは、勇の死後も再婚話を断り続けたという。

参考 ビジュアル版 日本史1000人 下巻

近代国家の成立

開国と幕末の動乱

公武合体と尊攘運動

八月十八日の政変で失った勢力を回復する機会をうかがつていた長州藩は、1864(元治元)年、京都守護職の指揮下で京都市中の警備にあたっていた近藤勇(1834〜68)ら新撰組によって京都の旅館池田屋で20数名の尊攘派志士が殺傷された池田屋事件に憤激し、藩兵を京都に攻めのぼらせた。しかし、迎え撃った幕府側の薩摩·会津・桑名の藩兵と京都御所付近で戦い、敗走した。

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