遣唐使
日本からの遣唐使は、630(舒明2)年の犬神御田鍬の派遣に始まり、894(寛平6)年の菅原道真の建議による中止にいたるまで、十数回にわたって唐に渡航した。8世紀には遣唐使がほぼ20年に1度の割合で派遣され、唐の進んだ政治・文化や文物を伝える役割を果たした。遣唐使がもたらした文物は、古代日本の国家体制や文化の形成に大きな影響を与えた。
遣唐使
7世紀初めの618年、隋にかわって中国を統一した唐王朝は、東アジアの広大な領域を支配下におさめ、律令を軸とする充実した国家体制を築いて、強大な勢力を誇って四方の地域にも大きな影響を与えた。
西アジアなどとの交流も活発になり、都の長安(現西安)は世界を代表する都市として国際的な文化が花開いた。
東アジアの国々も、唐に朝貢して冊封体制のもとに入ったり、通交を行なって、唐を中心とした政治圏・文化圏が形成された。
日本からの遣唐使は、630(舒明2)年の犬神御田鍬の派遣に始まり、894(寛平6)年の菅原道真の建議による中止にいたるまで、十数回にわたって唐に渡航した。
8世紀には遣唐使がほぼ20年に1度の割合で派遣され、唐の進んだ政治・文化や文物を伝える役割を果たした。遣唐使がもたらした文物は、古代日本の国家体制や文化の形成に大きな影響を与えた。
また、唐の長安からも日本の和同開珎が発見されている。遣唐使は、大使・副使以下、留学生・学問僧、船員などからなり、多いときには500人にも及ぶ人々が、4隻の船(四船)に分乗して東シナ海を渡った。しかし、造船や航海の技術はまだ未熟な段階であり、途中の海上で遭難することが多かった。
渡海のコースとしては、初めは博多から壱岐・対馬を経て朝鮮半島の西岸沿いに進み、渤海湾経由で山東半島に渡って陸路長安に向かう「北路」をとったが、8世紀に新羅との国交関係が悪化すると、より危険を伴うものの、五島列島から直接東シナ海を渡る「南路」によって長江河口を目指し、そこから陸路長安に向かうコースがとられるようになった。南路による帰途には、漂流して南西諸島沿いに帰国することも多かった。
多くの犠牲を伴いながら入唐した遣唐使たちの一部は、唐の長安におもむいて先進的な政治制度やインド・西アジア・西ヨーロッパにまで及ぶような周辺諸民族が集まる国際的な文化を吸収することができた。遣唐使の中では、長期にわたって唐で学んだ阿倍仲麻呂・吉備真備・玄昉らが名高い。
遣唐使の苦労
732(天平4)年に任命され翌年唐に渡った遣唐使の帰路は、苦難の道のりであった。任を終えて734(天平6)年10月に帰国するとき、長江河口を出発した四船は暴風に遭い散り散りとなった。
大使の船は同年11月に種子島にたどり着いたが、副使が帰着して帰国報告をしたのは遅れて736(天平8)年8月のことであった。判官の平群広成ら115人が乗った船にいたっては、東南アジアの崑崙国に漂着して兵に捕らえられて殺されたり、逃亡したり、90余人が疫病で死に、平群広成ら4人のみが生き残り、崑崙王の元に拘留されたのである。
735(天平7)年、唐から帰国した崑崙人商人の船に潜り込んで唐に戻った平群広成らは、玄宗(唐)に信任されていた阿倍仲麻呂のとりなしを得て、今度は渤海国経由で帰る許可を得、738年5月、渤海国にいたった。そこで渤海王に帰国を懇望し、渤海からの遣日本使の予定を早めて日本に送り届けてもらうことになった。しかし、その船も波浪に遭って1隻が転覆し、渤海使節の大使ら40人が日本海に沈んでしまった。平群広成らはようやく出羽国に到着し、奈良の都に戻ったのは、739(天平11)年10月のことであった。しかも、残る1船についてはまったく消息が伝わらない。たまたま大使の船で帰国できた玄昉や吉備真備が、その後活躍したことと明暗をなす話である。
阿倍仲麻呂・藤原清河は帰国することができないまま玄宗(唐)の寵を受けて高官に上り、結局、唐で死去した。無事に帰国できた吉備真備や玄昉は、20年近い在唐中に得た新しい政治・軍事・文化・仏教などの知識や文物を日本にもたらし、奈良時代の文化に大きな影響を与えるとともに、聖武天皇に重用されて政界でも活躍することになった。
唐と結んで676年に朝鮮半島を統一した新羅との間にも、多くの使節の往来が行われた。
新羅使や遣新羅使がもたらした文物も無視できない。しかし、唐の冊封を受けながら国力を充実させた新羅との関係は、新羅を従属国として扱おうとする日本との間で時に緊張が生じた。唐に安禄山・史思明の乱がおき、唐帝国が弱体化して東アジアに波乱が及ぶと、時の権力者藤原仲麻呂は渤海からの情報をえ、国内の統一をもはかって新羅侵攻を計画するにいたったが、実現しないままに終わった。
奈良時代後半以降、新羅との国交は消極化するが、民間の商人たちの往来はむしろ活発化していった。
また713年、靺鞨族などを中心に中国東北部に建国した渤海との間にも、緊密な使節の往来が行われた。高句麗の末裔と称する渤海王は、唐・新羅との対抗関係から727(神亀4)年に日本に使節を派遣して国交を求めてきた。日本にも新羅との対抗関係があり、渤海との間には友好的な外交関係が続いた。渤海から日本海を越えるルートとしては、出羽などへの北方経由の海路、能登・敦賀などの北陸地方への海路や、朝鮮半島東岸沿いに南下する西日本地方への海路が知られる。渤海の宮都である上京龍泉府の遺跡から日本の和同開珎が発見されたり、日本でも日本海沿岸で渤海系の遺物が出土するなど、交流の痕跡が知られている。
遣唐使表
年代 | 規模 | 備考 | ||
---|---|---|---|---|
1 | 出 | 舒明2年 (630年) |
? | 使節・犬上御田鍬 |
帰 | 舒明4年 (632年) |
僧旻帰国 | ||
2 | 出 | 白雉4年 (653年) |
241人 2隻 |
2つの使節が同時出発 高田根麻呂の船難破 |
帰 | 白雉5年 (654年) |
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3 | 出 | 白雉5年 (654年) |
2隻 | 高向玄理、唐で死亡 |
帰 | 斉明元年 (655年) |
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4 | 出 | 斉明5年 (659年) |
2隻 | 第1船漂着 |
帰 | 斉明7年 (661年) |
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5 | 出 | 天智4年 (665年) |
? | |
帰 | 天智6年 (667年) |
|||
6 | 出 | 天智6年 (667年) |
||
帰 | 天智7年 (668年) |
帰国不確実 | ||
7 | 出 | 大宝2年 (702年) |
? | |
帰 | 慶雲元年 (704年) |
|||
8 | 出 | 養老元年 (717年) |
557人 4隻 |
阿倍仲麻呂
吉備真備 |
帰 | 養老2年 (718年) |
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9 | 出 | 天平5年 (733年) |
594人 4隻 |
第三・四船遭難 |
帰 | 天平6年 (734年) 天平8年 (736年) |
真備・玄昉 | ||
10 | 出 | 天平勝宝4年 (752年) |
120人 4隻 |
使節・藤原清河
真備 |
帰 | 天平勝宝5年 (753年) 天平勝宝6年 (754年) |
|||
11 | 出 | 天平宝字3年 (759年) |
90人 1隻 |
迎入唐大使使派遣 |
帰 | 天平宝字5年 (761年) |
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12 | 出 | 天平宝字5年 (761年) |
4隻 | 中止(船破損) |
13 | 出 | 天平宝字6年 (762年) |
2隻 | 中止(安史の乱) |
14 | 出 | 宝亀8年 (777年) |
4隻 | 第一船難破 第二〜第四船漂着 |
帰 | 宝亀9年 (778年) |
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15 | 出 | 宝亀10年 (779年) |
2隻 | |
帰 | 天応元年 (781年) |
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16 | 出 | 延暦23年 (804年) |
4隻 | 橘逸勢(往) 最澄・空海 |
帰 | 大同元年 (806年) |
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17 | 出 | 承和5年 (838年) |
600余人 4隻 |
使節・小野篁の不服 円仁(往) 第二・三船遭難 |
帰 | 承和6年 (839年) |
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18 | 出 | 寛平6年 (894年) |
菅原道真の建議により 遣唐使中止 |