門戸開放政策 門戸開放通牒 列強による清国分割
列強による清国分割
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門戸開放 もんこかいほう  A.D.1899〜

合衆国が中国における商業活動の自由を列強に伝えたことを示すことば。

門戸開放

合衆国が中国における商業活動の自由を列強に伝えたことを示すことば。

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アメリカが提言した門戸開放政策

1899年
アメリカは中国における他国と同等の特権を得るべく、アメリカのジョン・ヘイ国務長官は列強主要国(フランス、ドイツ、イギリス、イタリア、日本、ロシア)に対し、中国の主権の尊重と中国内の港湾の自由使用を求める門戸開放通牒を発した。これに対し各国は、それぞれの利権のために他国の判断が下されるまでは判断を留保すると返答した。
1900年3月
ジョン国務長官は、通牒の内容は有効になったと宣言、これに対して日本だけはこの宣言に対し異議を申し立てたが、アメリカは門戸開放が国際的な政策になったとの主張を展開した。
義和団の乱の後に、ヘイ国務長官は同等の趣旨(ただし、より領土保全が強調されている)の文章を各国に再送した。
1902年
アメリカは満州におけるロシアの侵略は門戸開放政策に反すると主張した。
1904年から1905年
日露戦争の結果、ロシアに代わって満州南部における利権を獲得した日本は、アメリカに対し満州では門戸開放政策を維持すると伝えた。
1909年
アメリカは、門戸開放の維持の為に、日本では新4国借款団と呼ばれる、中国が鉄道を敷設するのに必要な借款を工面する為の日本・アメリカ・イギリス・フランス四カ国からなる銀行集合の形成を誘導した。この目的は中国進出を日本に独占させないことであった
1913年
アメリカはこれが中国の国内統治の完全性を欠くことになると主張して、これを脱退した。
1915年
日本が対華21ヶ条要求を突きつけたときである。
1917年
日米間で、中国における門戸開放は尊重されるが、アメリカは日本の中国における特殊権益を認めるという石井・ランシング協定が結ばれた。門戸開放の原則は同年の日本と連合国 間の、山東半島ドイツ権益に関する秘密協定によってさらに弱まった。
1921年から1922年
ワシントン会議 (1922年)の九カ国条約において再確認され、これにアメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリア、オランダ、ポルトガル、中国、ベルギーが署名することで一時的に回復した。これに伴い石井・ランシング協定は破棄された。
1931年
満州事変及び満州国の建国によって、門戸開放政策は崩壊した。

近代国家の成立

日露戦争と国際関係

列強の中国分割

アジアの大国であった清国が日清戦争に敗れて弱体ぶりを暴露すると、列強の目はいっせいに清国に注がれることになった。ドイツが宜教師殺害事件をきっかけに、1898年に山東半島の膠州湾を租借すると、続いてロシアが、三国干渉によって日本が清国に返還した遼東半島の旅順・大連などを、イギリスが威海衛·九竜半島を、フランスは広州湾をそれぞれ租借し、アメリカも1899年、国務長官ジョン=ヘイ( John Hay, 1838〜1905)が清国に対する門戸開放・機会均等・領土保全を宣言して、列強の清国進出に割り込む姿勢を示した。列強はこれらの租借地を根拠地として鉄道敷設権や鉱山採掘権などを得て、清国での権益を拡大していった

とくにロシアは東支鉄道とうしてつどう敷設権ふせつけんを得て、満州(現中国東北地方)進出を進めた。
アジア諸地域の動揺
中国のケーキ(アンリ・マイヤー画/フランス国立図書館蔵/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

日清戦争終結から3年後、列強がこぞって中国を分割する様を描いています。この年、各国による租借、占領、割譲などが次々に行われました。図の左からイギリスのヴィクトリア女王、ヴィルヘルム2世(ドイツ皇帝) 、ロシアのニコライ2世、フランスの象徴である女性像マリアンヌ、そして日本を象徴するサムライ。背後には清国人がなすすべもなく手を上げています。 参考: おもしろい世界の風刺画 (OAK MOOK)

満州進出と日米摩擦

アメリカが日露戦争で日本に好意的立場をとり、講和を仲介したのは、ロシアが満州を独占的に支配することを警戒したためであったが、戦後、日本の南満州への進出が盛んになると、満州の鉄道に関心をもつアメリカとの対立が芽ばえ始めた。すでに日露講和条約締結直後の1905(明治38)年、アメリカの鉄道企業家ハリマン( Harriman, 1848〜1909)は長春・旅順間の鉄道を日米共同経営とすることを提案したが、日本政府はこれを拒否した。その後も、アメリカは満州に対する門戸開放を唱えて、1909(明治42)年には国務長官ノックス( Knox, 1853〜1921)が、満州における列国の鉄道権益を清国に返還させ、これを列国の共同管理のもとにおくこと(満州の鉄道中立化)を提案したが、日本とロシアがこれに反対して、この提案は実現しなかった。

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