関ヶ原合戦図屏風 関ヶ原の戦い
関ヶ原合戦図屏風(六曲一隻)(関ケ原町歴史民族資料館蔵)©Public Domain

関ヶ原の戦い


関ヶ原の戦い (1600年10月21日)

慶長5年(1600)関ヶ原で、石田三成らの西軍と、徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の内応により東軍が大勝。石田三成ら西軍は処刑、配流、改易され、豊臣秀頼は摂津・河内・和泉3カ国65万石余りの一大名転落し、徳川氏の覇権が確立した。

関ヶ原の戦い

戦争データ

年月日:1600年10月21日
場所:美濃国関ヶ原、垂井
結果:東軍の勝利
石田三成、小西行長、安国寺恵瓊らの斬首
交戦勢力
西軍 東軍
指導者
毛利輝元
石田三成
宇喜多秀家
上杉景勝ほか
徳川家康
徳川秀忠
結城秀康
黒田長政ほか
戦力
80,000以上
(諸説あり)
74,000〜104,000
(諸説あり)

参考:Wikipedia

関ヶ原の戦い地図
関ヶ原の戦い地図 ©世界の歴史まっぷ

幕藩体制の確立

幕藩体制の成立

江戸幕府の成立

1598(慶長3)年に豊臣秀吉が死去すると、家康の地位は浮上した。家康と対立したのが、豊臣政権を支えてきた実務官僚である五奉行の一人石田三成であった。三成は小西行長らとともに五大老の一人毛利輝元を盟主にして、宇喜多秀家島津義弘(1535〜1619)らの西国諸大名を味方につけて兵をあげた(西軍)。
対する東軍は、家康と彼にしたがう福島正則(1561〜1624)・加藤清正(1562〜1611)·黒田長政(1568〜1623)らの諸大名で、三成と通じた会津の上杉景勝との戦いのあと、東西両軍は1600(慶長5)年9月、美濃の関ヶ原で激突した(関ヶ原の戦い)。
東軍10万4000人、西軍8万5000人の天下分け目の戦いは、小早川秀秋(1582〜1602)の内応により東軍の大勝となった。
家康は石田三成・小西行長らを京都で処刑したほか、宇喜多秀家を八丈島に流し、西軍諸大名90家・440万石を改易(領地没収)した。また、毛利輝元は120万石から37万石に、上杉景勝は120万石から30万石に減封(領地削減)された。逆に東軍の将士はその分加増され、新たに28の諮代大名が取り立てられた。

参考
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史跡
首塚

共に合戦での戦死者を弔うために建立されたもの。国の史跡。

  • 東首塚:岐阜県関ヶ原町関ヶ原908-3。関ヶ原駅から約300m。
  • 西首塚:岐阜県関ヶ原町関ヶ原2236。関ヶ原駅から約700m。
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