陳勝・呉広の乱
陳勝・呉広の乱 大泽乡起义

陳勝・呉広の乱


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陳勝ちんしょうごこうの乱 (紀元前209年〜紀元前208年)

秦の二世皇帝即位の翌年、農民の陳勝ちんしょう呉広ごこうのおした反乱。陳勝は日雇いで生計を立てていた貧しい農民で、北辺の守備に徴発されたが、期に遅れた。斬罪を恐れて呉広らと引率の隊長を斬り、挙兵した。秦の圧政に苦しむ農民の支持をえて反乱の規模は拡大したが、わずか6ヶ月で鎮圧された。しかし2人の挙兵を機に項羽劉邦らが兵をあげ、秦は滅亡した。

陳勝・呉広の乱

始皇帝の死後おきた農民反乱。徴発された農民を率いて陳勝と呉広が挙兵したが、半年で鎮圧された。しかしこれを契機に各地で反乱がおこり、項羽や劉邦が台頭することとなった。

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アジア・アメリカの古代文明

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アジア・アメリカの古代文明 ©世界の歴史まっぷ

中国の古代文明

秦の統一

始皇帝が採用した支配体制は、以後2000年におよぶ中国の中央集権体制の原型となったが、そのあまりに急激な改革や厳格な法治主義による統治は、旧6国の貴族や民衆の反感を招いた。とりわけ、度重なる遠征および長城の修復や壮大な宮殿(阿房宮あぼうきゅう)・陵墓(始皇帝陵(驪山陵りざんりょう)造営などの大土木工事に関わる負担は、民衆の生活を大変苦しめた。そのため、紀元前210年に東方巡幸途中で始皇帝が病死し、二世皇帝胡亥こがいが即位すると、翌紀元前209年に陳勝・呉広の乱が起こり、これを契機に各地で反乱が勃発した。そのなかには、のちに漢の高祖となる劉邦りゅうほうやもとの楚の貴族出身の項羽こううも含まれていた。
こうして各地に起こった反乱の渦中で、秦は統一後わずか15年にして滅亡した(紀元前206)。

陳勝・呉広の乱

陳勝はもと日雇いで生計を立てていた貧しい農民で、北辺を守備する兵士として徴発されたが、期間内に目的地である河北の漁陽に到達できないことが明らかになると、斬罪になるのを恐れて呉広らと引率の隊長を斬り反乱をおこした(紀元前209年)。はじめは小規模な反乱集団であったが、秦の拠点を次々に攻略し、河南に張楚ちょうそという小さな王朝をたてるようになると、秦の圧政に苦しむ農民の支持をえてその規模も拡大した。陳勝・呉広による反乱そのものは、秦軍の圧力や内部の離反により急速に崩壊し、わずか6ヶ月で鎮圧された(紀元前208年)が、これに呼応するようにして各地で反乱がおこった。
なお、陳勝の
「嗟呼燕雀安知鴻鵠之志哉」燕雀えんじゃくいずくんぞ鴻鵠こうこくの志を知らんや」(ああ、燕や雀のごとき小鳥にどうして鴻(ヒシクイ)や鵠(白鳥)といった大きな鳥の志がわかろうか)の言葉や、反乱に際しての
「王侯将相寧有種也」王侯将相おうこうしょうしょういずくんぞしゅあらんや」(王や諸侯、将軍、宰相になると生まれた時から決まっている訳ではない。即ち、誰でもなることができるのだ)の言葉は有名である。

秦の統一 – 世界の歴史まっぷ

詳説世界史研究

秦末の農民・陳勝と呉広の起した反乱。陳勝(ちんしょう)は陽城 (河南省登封県) 、呉広(ごこう)は陽夏 (河南省太康県) の人。秦の二世皇帝1(紀元前209)年7月、2人は漁陽の守備に徴発されたが期に遅れた。期を失すれば斬罪が秦の掟であったから、2人は意を決して挙兵した。陳勝は始皇帝の長子扶蘇、呉広は楚の名将項燕と偽って人心を掌握し、貧民を糾合してその勢数万となり、それぞれ陳王、仮王を称したが、秦軍に敗れ、また内紛を起して6ヵ月で壊滅した。しかし2人の挙兵を機に項羽、劉邦らが兵をあげ、秦は滅亡した。

参考 ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2016

陳勝・呉広の乱 が登場する作品

項羽と劉邦 King's War
項羽と劉邦 King’s War ©中国国際電視総公司

項羽と劉邦 King’s War あらすじ 登場人物 – 世界の歴史まっぷ

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