靖康の変 (1126年)
北宋と金は同盟を組んで遼を滅ぼしたが、戦費の支払いなどをめぐって宋の背信行為に怒った金は大軍を南下させ、宋(北宋)の都開封(汴京)を占領し、宋の上皇徽宗・皇帝欽宗などを捕らえ北方に連れ去り、北宋は滅亡した事件。
靖康は当時の宋の年号。1126年が靖康元年に当たる。
靖康の変
東アジア世界の形成と発展
東アジア諸地域の自立化
宋の統一
12世紀になると、江南全域をまきこんだ方臘の乱(1120〜1121)という農民反乱が発生して国力は衰退し、ついには東北地方から起こった女真族の金の侵入を防ぐことができず、北宋は滅亡した(靖康の変)(1126〜1127)。
宋の南遷と金の華北支配
北宋は、燕雲十六州の奪回をはかり、新興の金朝と同盟を結んで遼朝を挟撃し、1125年、これを滅ぼした。しかし、戦費の支払いなどをめぐって北宋は背信行為を重ね、これに怒った金朝は大軍を南下させて北宋の都開封を攻囲した。
1114年、阿骨打は寧江州の戦いで遼軍を敗北させた。
1126年、金朝はさらなる北宋の違約を責めて開封を占領し、翌1127年、上皇徽宗や皇帝欽宗(宋)をはじめとする皇族や重臣3千余人を捕らえて北方に連れ去り、ここに北宋は滅んだ(靖康の変)。
こうして華北一帯は金軍に占拠されたが、欽宗(宋)の弟趙構は江南に走り、皇帝に即位し(高宗)、杭州に都を置いて臨安と改称し、江南に拠って金朝に対抗した。これを南宋(1127〜1279<1276>)と呼ぶ。