三国志 魏志倭人伝 倭国大乱
三国志 魏志倭人伝(宮内庁書陵部所蔵資料

魏志倭人伝


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志倭人伝ぎしわじんでん 

三国時代(中国)の正史『三国志』は陳寿(233〜297)の著で、『魏書』30巻・『書』15巻・『書』20巻から成る。『魏書』の「烏丸鮮卑うがんせんぴ東夷伝」倭人条を一般に「魏志」倭人伝とよぶ。

「魏志」倭人伝

三国時代(中国)の正史『三国志』は陳寿(233〜297)の著で、『魏書』30巻・『蜀書』15巻・『呉書』20巻から成る。『魏書』の「烏丸鮮卑うがんせんぴ東夷伝」倭人条を一般に「魏志」倭人伝とよぶ。

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東アジア世界の形成と発展

東アジア文化圏の形成

唐文化の波及と東アジア諸国
日本の呼称

中国では、日本のことを古くは「倭」と呼んでいた。このことは『魏志』倭人伝によって広く知られるところである。中国の正史では『隋書』以前は「倭国伝」、宋代につくられた『新唐書』以後は、「日本伝」としている。五代につくられた「旧唐書くとうじょ」は「倭国伝」「日本伝」の両方を記しており、唐代に日本という呼称が定着したことがわかる。聖徳太子摂政時代の遣隋使が対等の外交を模索し、その国書に「日出処の天子、日没する処の天子に書を致す」と記したことはよく知られているが、『旧唐書』日本伝では遣唐使の態度を「多くみずから大をほこる」と記している。新羅の台頭に対し、国際的な立場の強化に努めようとする苦心が感じられ、「日本」という呼称もこうした国際的対面を重視した結果、7世紀末に生まれた呼称とみることができよう(701年制定の大宝律令で法的に定まった。)。

北方民族の活動と中国の分裂

周辺国家の形成
邪馬台国

漢代には多くの小国家に分かれ、中国の歴史書で倭わと呼ばれていた日本列島でも、3世紀前後より邪馬台国を中心とする連合が進み、その女王卑弥呼は239年に魏(三国)に朝貢し、「親魏倭王」の称号をえて勢力をのばした(『三国志』魏書東夷伝倭人条。通称『魏志』倭人伝)。

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日本文化のあけぼの

農耕社会の成立

3. 小国の分立

1822(文政5)年に発見された福岡県糸島市三雲南小路遺跡の甕棺からは、前漢の鏡35面、銅剣・銅矛・銅戈・ガラス璧8個、金銅製四葉座金具8個などが出土した。これは、3世紀に書かれた『魏志』倭人伝にみえる伊都国いとこくの王墓であると推定されている。

吉野ヶ里遺跡と環濠集落

南北2カ所に内郭はあり、南内郭が約150m×70m, 北内郭が60m×60mで、北内郭は二重の壕がめぐる。
いずれの内郭も数カ所に壕がはり出した部分があり、そこから数本の柱の跡がみつかっており、『魏志』倭人伝に書かれた楼観ろうかん、すなわち見張りの物見櫓ものみやぐらの跡ではないかと推定されている。

4. 邪馬台国連合

中国大陸では、220年に後漢が滅び、北方の魏、南方の呉、西方の蜀が並び立つ 三国時代(中国) を迎えた。この時代の歴史書である『三国志』の中の『魏志』倭人伝 には、3世紀前半から中葉の倭の情勢がかなり詳しく書かれている。

正確には『三国志』のなかの『魏書』の「烏丸鮮卑うがんせんぴ東夷伝」のなかの倭人条のことで、倭人に関する記載だけで一伝が立っているわけではない。『三国志』は西晋陳寿ちんじゅが3世紀後半に著したもの。

古墳とヤマト政権

1. 古墳の出現とヤマト政権
邪馬台国連合とヤマト政権

この戦いの時期は、中国からもたらされた鏡の分布の中心が北部九州から近畿に移動する、2世紀末から3世紀初めのことと考えられる。とすれば、こうしてできあがった政治連合は『魏志』倭人伝にみられる邪馬台国連合にほかならないことになる。

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