龍安寺 (竜安寺)
1450(宝徳2)年、足利将軍の管領職にあった細川勝元が、徳大寺公の山荘を譲り受け、妙心寺第5世の義天玄承禅師を開山に迎え創建。応仁の乱で焼失するが、勝元の実子細川政元によって再興される。1797(寛政9)年、方丈、開山堂、仏殿を火災によって焼失。現在の方丈は塔頭の西源院の方丈を移築したもの。豊臣秀吉も幾度か龍安寺を訪れ、自らの手による制札が残されている。また、細川勝元夫妻・政元らの墓が開山義天和尚の墓とともに現存する。世界遺産「古都京都の文化財」に含まれ、白砂に15の石組を配した石庭は枯山水の代表作である。
龍安寺
- 1450(宝徳2)年、足利将軍の管領職にあった細川勝元が、徳大寺公の山荘を譲り受け、妙心寺第5世の義天玄承禅師を開山に迎え創建。応仁の乱で焼失するが、勝元の実子細川政元によって再興される。
- 1499(明応8)年、方丈が建立され、石庭もこの時に築造されたと伝えられる。
- 1797(寛政9)年、方丈、開山堂、仏殿を火災によって焼失。
- 現在の方丈は塔頭の西源院の方丈を移築したもの。豊臣秀吉も幾度か龍安寺を訪れ、自らの手による制札が残されている。また、細川勝元夫妻・政元らの墓が開山義天和尚の墓とともに現存する。
参考 公式ホームページ
世界遺産「古都京都の文化財」
武家社会の成長
室町文化
東山文化
庭園
書院造の住宅や禅宗様の寺院には、禅の世界の精神で統ーされた庭園がつくられた。岩石と砂利を組み合わせて象徴的な自然をつくり出した枯山水はその代表的なものであり、竜安寺石庭や大徳寺大仙院庭園などの名園がつくられた。作庭に従事したのは河原者(山水河原者)と呼ばれる賤民身分の人々であったが、東山山荘の庭をつくった善阿弥(生没年不詳)はその代表的な人物であり、彼の子の小四郎、孫の又四郎も同じく作庭家として活躍した。