かぶき者
「かぶく」は「傾く」と同義で、斜めになることをいい、異形・異装、あるいは通常とは異なる行動をとることを指している。戦場で武功をあげて上昇をはかる途の絶えた旗本や牢人たちは、無頼のかぶき者として、秩序に抗して乱暴を働き、満たされぬ思いを社会にぶつけた。その影響は幕府も容認できぬものであり、綱吉政権は、力の弾圧でかぶき者を取り締まり、戦国以来の武力で上昇をはかろうとする価値観を、生類憐み令と服忌令の二つの法令を出すことで社会全体の価値観ごと変化させた。
かぶき者
幕藩体制の確立
織豊政権
町衆の生活
庶民の娯楽としては、室町時代からの能や風流踊りがあったが、17世紀初めに出雲大社の巫女の出身といわれる出雲阿国(生没年不詳)が京都でかぶき踊りを始めて人々にもてはやされ(阿国歌舞伎)、やがてこれをもとに簡単なしぐさを加えた女歌舞伎が生まれた。「かぶき」とは「傾く」という語から生まれた言葉で、目を驚かす異様な姿でかわったことをする者を当時「かぶき者」といったが、阿国は当時流行していたこの「かぶき者」の風俗を踊りを交じえながら演じたので、その芸能を「かぶき踊り」と呼ぶようになった。女歌舞伎はそののち風俗を乱すという理由で江戸幕府によって1629(寛永6)年に禁止され、ついで少年が演じる若衆歌舞伎が盛んになったが、これも17世紀半ばに禁じられ、以後は成人男性だけの野郎歌舞伎になった。
幕藩体制の展開
幕政の安定
元禄時代
もはや平和と社会の秩序は、動かしがたいものとなった。しかし依然として、過去の激動の時代の価値観(戦国の遺風)は屈折して残っていた。死を恐れず、戦場で武功をあげて上昇をはかる途の絶えた旗本や牢人たちは、無頼のかぶき者として、新たな儀礼的秩序のなかで、容易に旧来の価値観を転換できなかった。そのため秩序に抗して乱暴を働き、満たされぬ思いを社会にぶつけて解消しようとした。その風は、町人にも及び、無頼の及ぼす影響は幕府の支配にとって容認できぬものであった。
かぶき者
かぶき者は、近世初頭の1600年前後に歴史の舞台に登場した。「かぶく」という言葉は「傾く」と同義で、斜めになることをいい、異形・異装、あるいは通常とは異なる行動をとることを指している。1660年代のかぶき者には、旗本水野十郎左衛門らの旗本・御家人や奉公人の「旗本奴」がおり、町人の幡随院長兵衛らの「町奴」がこれに対抗した。幕府は1664(寛文4)年、異形の風体で登城した水野を切腹させた。
かぶき者の取締りは4代家綱の代にも行われたが、5代綱吉の代になって、1683(天和3)年から強引な検挙が開始され、86(貞享3)年、かぶき者の集団(大小神祇組)200余名を逮捕した。検挙者のうちには与力・同心や御家人の子弟が含まれ、リーダー格の11人は打首にされた。このほか幕臣の処罰は300件に及び、素行不良者などが摘発された。綱吉政権は、力の弾圧でかぶき者を取り締まったうえに、戦国以来の武力に頼って上昇をはかろうとする価値観を、生類憐み令と服忌令の二つの法令を出すことで、社会全体の価値観ごと変化させた。