アウクスブルク同盟戦争
ナミュール包囲戦(1692年)©Public Domain

アウクスブルク同盟戦争


アウクスブルク同盟戦争 (大同盟戦争、九年戦争、プファルツ継承戦争、プファルツ戦争、ファルツ戦争)( A.D.1688〜A.D.1697)

ルイ14世(フランス王)の侵略戦争の一つ。オランダ、スペイン、イギリスなどのアウクスブルク同盟との戦争で、イギリス名誉革命と同時期に展開され、北米植民地では英仏がウィリアム戦争を戦っていた。

アウクスブルク同盟戦争

戦争データ

年月日:1688年〜1697年
場所:ベルギー、ドイツ、イタリア
結果:レイスウェイク条約の締結
交戦勢力
イングランド王国
ネーデルラント連邦共和国
神聖ローマ帝国
ハプスブルク帝国
スペイン帝国
サヴォイア公国
スウェーデン・バルト帝国
フランス王国
ジャコバイト
指導者
ウィリアム3世(イングランド王)
ジョン・チャーチル(初代マールバラ公)
アーサー・ハーバート(初代トリントン伯爵)
エドワード・ラッセル(初代オーフォード伯爵)
ヴァルデック侯ゲオルク・フリードリヒ
メンノ・フォン・クーホルン
マクシミリアン2世エマヌエル(バイエルン選帝侯)
ルートヴィヒ・ヴィルヘルム(バーデン=バーデン辺境伯)
フリードリヒ1世(プロイセン王)
シャルル5世(ロレーヌ公)
アエネアス・カプラーラ
オイゲン・フォン・ザヴォイエン
ヴィットーリオ・アメデーオ2世
カスターニャ侯フランシスコ・アントニオ・デ・アグルト
フランソワ・アンリ・ド・モンモランシー(リュクサンブール公)
セバスティアン・ル・プレストル・ド・ヴォーバン
ルイ・ド・クルヴァン(ユミエール公)
ルイ・フランソワ・ド・ブーフレール
ロルジュ公ギー・アルドンス
ニコラ・カティナ
ノアイユ公アンヌ・ジュール
デュラス公ジャック・アンリ
フランソワ・ド・ヌフヴィル(ヴィルロワ公)
ルイ・ジョゼフ・ド・ブルボン
アンヌ・イラリオン・ド・コタンタン
ジャン・バール
ジェームズ2世(イングランド王)
リチャード・タルボット(ティアコネル伯)
戦力

参考 Wikipedia

概要

アウクスブルク同盟戦争、大同盟戦争とも呼ばれる。ルイ14世(フランス王)のファルツ領割譲の要求に端を発し、1689~1697年に行われた国際戦争。アルザス北部のファルツ伯家に男系が絶えると、ルイ14世は弟オルレアン公の妃が同家の出であるのを理由に領土を要求、これを恐れた神聖ローマ皇帝、バイエルン、ザクセンなどのドイツ諸侯、スペイン、オランダ、スウェーデン諸王はアウクスブルク同盟を結んで反対し、名誉革命後のイギリスやサボイアも参加、戦争はフランスのファルツ侵入で開始され、アメリカ植民地にも戦闘は拡大した。ファルツではフランス軍が徹底的な破壊戦争を展開、ドイツ、ネーデルラントも戦場となって荒され、フランス国民も負担に苦しんだ。ルイ14世は戦線が膠着するのをみて、外交交渉によって同盟側の足並みを乱そうと考え、神聖ローマ皇帝軍の前戦司令官であったサボイア公ヴィットーリオ・アメデーオ2世と単独講和を締結。その結果同盟側の団結はくずれ、1697年ライスワイク条約(レイスウェイク条約)でフランスに若干有利な条件を取決め、戦いは終結した。なお、この戦争をドイツでは「オルレアン戦争」、イギリスでは「九年戦争」と呼称している。

参考 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

レイスウェイク条約

レイスウェイク条約
レイスウェイク条約後のヨーロッパ Wikipedia

内容

条約締結によってルイ14世(フランス王)のフランスはストラスブールとサンドマング(現在のハイチ)を獲得し、南インドのポンディシェリとカナダのノヴァスコシアを回復した。

スペインはフランスに占領されたカタルーニャとルクセンブルクなどの地域を回復し、長くフランス領だったロレーヌ公国は一旦神聖ローマ帝国の封土としてロレーヌ公レオポルトに返還された。

イングランドは領土的に得たものはないが、ルイ14世はウィリアム3世(イングランド王)をイングランド王と認め、名誉革命によってフランスに亡命していたジェームズ2世(イングランド王)を今後援助しないことを約束した。

スウェーデンは、プファルツ家の継承地プファルツ=ツヴァイブリュッケン公領(帝国封土)をフランスより主権奪回した。

プファルツ選帝侯はフィリップ・ヴィルヘルムの息子ヨハン・ヴィルヘルムが継承、ルイ14世(フランス王)は義妹のエリザベート・シャルロット・ド・バヴィエールの継承権を主張しないことを約束した。

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