アシエント
英国反奴隷協会公式メダリオン(WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

アシエント


アシエント asciento

アメリカ大陸のスペイン植民地へ奴隷を供給する権利。1517年スペインはアメリカ植民地経営のため年間4千人の黒人奴隷を供給する権利を入植者に与えた。1713年イギリスはユトレヒト条約によりこの権利をスペインから獲得した。

アシエント

「契約」「請負約束」を意味するスペイン語であるが、歴史的には、スペイン領アメリカに黒人奴隷を供給する「特権」をさす。16世紀中頃からスペインはアメリカ植民地経営のためにアフリカから黒人奴隷を輸入し、この奴隷供給の特権を個人に認めてきた。しかし、ユトレヒト条約によって、アシエントは正式にイギリスに与えられた(1713~50)。これによってイギリスの南海会社が30年間、毎年4800人の黒人奴隷をスペイン領植民地へ供給する権利を承認された。

参考 ブリタニカ国際大百科事典

ヨーロッパ主権国家体制の展開

ヨーロッパ主権国家体制の形成

スペイン帝国の成り立ち

トルデシリャス条約で、中南米のほとんどの領有を認められたスペインは、現地に植民市を建設し、それを拠点として植民を進めた。

スペイン人植民者に対して、それぞれの地域の先住民をキリスト教に改宗させ「保護する」ことを口実に、彼らに租税を課し、労役をさせる権利を認めたのが、この制度(エンコミエンダ)である。この権利を与えられた植民者は、エンコメンデーロと呼ばれた。

彼らは先住民を事実上奴隷化したため、ドミニコ会の修道士ラス・カサスがこれに激しく抗議し、王室もエンコミエンダの縮小をはかろうとするが、植民者の抵抗にあって果たせず、この制度がスペイン領アメリカの基本的な社会・経済制度として定着した。

先住民(インディオ)の保護者として知られるラス・カサス自身、彼らの絶滅を防ぐために、早くからアフリカからの黒人奴隷の導入を提唱していた。エンコミエンダ制度のもとでも、ヨーロッパからきた伝染病と厳しい租税や労役のため、先住民はなおも激減しつづけたので、1517年スペイン王カルロス1世(=カール5世(神聖ローマ皇帝))が、年間4000人の黒人奴隷を供給する権利(アシエント)を与え、奴隷制度への道が本格的に開かれた。こうした労働力は、銀のほかのトウモロコシや家畜といった食料などの生産に使役された。

ヨーロッパ諸国の海外進出

英・仏の植民地戦争
ヨークタウンの戦い 戦争の経過とパリ条約 北アメリカの植民地 13植民地地図
13植民地地図 ©世界の歴史まっぷ

スペイン継承戦争後のユトレヒト条約(1713)では、イギリスはフランスからニューファンドランドなどを、スペインからは同国の植民地への奴隷供給権(アシエント特権)などを獲得した。さらに、1739年からイギリスとスペインの間におこったジェンキンズの耳の戦争は、翌1740年からオーストリア継承戦争(1740〜1748)となり、イギリスはオーストリアと組んでフランス・スペインと対抗した。

欧米における近代国民国家の発展

ウィーン体制

イギリスの諸改革

1713年のユトレヒト条約のなかで、イギリスはスペインからアシエント asciento (アメリカ大陸のスペイン植民地への奴隷供給独占契約権のこと)を獲得し、アメリカ大陸のスペイン植民地とアフリカを結ぶ奴隷貿易をほぼ独占した。この結果リヴァプール Liverpool などの町は奴隷貿易船の出入りで繁栄した。しかし、18世紀末からの革命思想によって人間の尊厳に対する人道主義的世論が高まり、1807年イギリスにおける奴隷貿易が禁止され、さらに33年植民地も含む奴隷解放令がグレー内閣(チャールズ・グレイ(第2代グレイ伯爵) Charles Grey (1764〜1845 任1830〜34))のもとで成立し、38年有償方式による全奴隷の解放が実現した。

イギリスでは18世紀からクェーカー教徒によって奴隷反対運動が進められていた。デフォーやアダム=スミスなども反対を表明した。
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