アナーニ事件
ボニファティウス8世(ローマ教皇)は、1300年キリスト教世界に聖年の布告を発し、ローマのサン・ピエトロ教会に詣でるものに全贖宥を与えることを宣言、1302年教皇権の絶対性を主張し、教皇権の健在ぶりを誇示し、フランス国内の教会領への課税をめぐって、フィリップ4世(フランス国王)と対立。1303年教皇はローマ南方のアナーニで捕らえられ、一時監禁された。
アナーニ事件
ヨーロッパ世界の形成と発展
西ヨーロッパ中世世界の変容
教会勢力の衰微
13世紀末にでたボニファテゥウス8世(ローマ教皇)(位1294〜1303)は、国家に対する教会の優位と教皇権の絶対性を主張したが、王権の伸張という現実により打ち砕かれた(アナーニ事件 1303)。
ボニファティウス8世とアナーニ事件
ボニファティウス8世(ローマ教皇)は、1300年キリスト教世界に聖年の布告を発し、ローマのサン・ピエトロ教会に詣でるものに全贖宥(罪の許し)を与えることを宣言。さらに1302年には教書「ウナム・サンクタム(唯一の聖なる)」で教皇権の絶対性を主張し、教皇権の健在ぶりを誇示した。また、フランス国内の教会領への課税をめぐって、フィリップ4世(フランス国王)と対立した。だが、今やカノッサ事件の時とは、時代も状況も異なっていた。いち早く三部会を開いて(1302)その支持を取り付けたフィリップにより、1303年教皇はローマ南方のアナーニで捕らえられ、一時監禁されてしまった。いわゆるアナーニ事件である。教皇は即座に関係者を破門したが効果なく、屈辱のうちにまもなく没した。その後、フィリップは新しい教皇に圧力を加えて、1302年の教書の撤回とアナーニ事件関係者の赦免を認めさせた。
その後ボルドー出身のクレメンス5世(ローマ教皇)は政情不安なローマを嫌い、教皇庁を南フランスのアヴィニョンに遷居した。以後7代約70年にわたり、教皇はフランス王の監視下におかれることになった。これを、古代のユダヤ人の苦難になぞらえて、「教皇のバビロン捕囚」(1309〜1377)という。
1378年、教皇庁はグレゴリウス11世(ローマ教皇)によりローマに戻されたが、彼の死後、新教皇にイタリア人のウルバヌス6世(ローマ教皇)が選出されると、フランス人の枢機卿は対立教皇クレメンス7世(対立教皇)をたて、アヴィニョンに再び教皇庁を設置した。フランス・イベリア諸国・ナポリ・スコットランドなどはアヴィニョン派を支持し、イタリア諸国・ドイツ諸侯・イングランドなどはローマ派を支持したため、ここに教会大分裂(大シスマ 1378〜1417)は決定的となり、教皇の権威は失墜した。