アレクサンドロス3世 アレクサンドロス大王
アレクサンドロス3世 (ナポリ国立考古学博物館蔵 モザイク拡大) ©Berthold Werner

詳説世界史研究

オリエントと地中海世界

ギリシア世界

アレクサンドロス大王

ギリシアのポリスを支配するようになったフィリッポス2世 Philippos Ⅱ(位前359〜前336)はギリシア文化の愛好者で、息子のアレクサンドロスのためにアリストテレスを招いたりした。

アレクサンドロス自身も、ホメロスの詩やギリシアの自然を科学を好んだという。
フィリッポス2世が貴族に殺されてあとを継いだアレクサンドロス3世 Alexandros Ⅲ(大王・位前336〜前323)は、忠実な貴族を中心に支配体制を固める一方、ヘラス同盟の盟主として東方のペルシア帝国への遠征に着手した。その名目はかつてのペルシアによるギリシア侵入への報復であった。アレクサンドロスはすぐれた軍事指導者で、マケドニアの貴族騎兵隊を軸にギリシアから招集した重装歩兵長槍密集隊ながやりみっしゅうたいと艦隊を率いて小アジアに侵入し、イッソスの戦い(前333年)でペルシアのダレイオス3世 Dareios Ⅲ(位前336〜前330)を破ってシリア・エジプトを占領した。
アレクサンドロス3世 アレクサンドロス大王
アレクサンドロス大王
イッソスの戦いでダレイオス3世に決戦をいどむアレクサンドロス。ポンペイの貴族邸宅のモザイク画。ローマ人にとっても彼が英雄と受け取られていたことがわかる。中央アジアでも彼の記憶は伝説化して長く残った。(ナポリ国立考古学博物館蔵 モザイク拡大) ©Berthold Werner
エジプトに入ったアレクサンドロスは砂漠のアンモン神殿に参拝し、自分がアモンの子、ファラオの後継者であるとの神託をえたといわれる。つまり彼はこの体験からもギリシア人の盟主から東方の王、世界征服者へという自覚を次第に高めていったのであろう。

さらにダレイオスを追撃してアルベラ・ガウガメラの戦い(前331年)でも圧勝して首都ペルセポリスを焼き払い、アケメネス朝を滅ぼした。

アレクサンドロス大王 アルゲアス朝 5.ポリスの変容とヘレニズム時代 アレクサンドロス3世 アレクサンドロス大王東方遠征進路地図
アレクサンドロス大王東方遠征進路地図 ©世界の歴史まっぷ

アレクサンドロスはギリシア同盟軍を解散させて、それからはペルシア兵士をも用いてさらに東方への遠征に向かった。エジプトのナイル河口にギリシア風の都市を建設してアレクサンドリア Alexandria と名付けたのをはじめに、各地の軍事・交易の拠点に同名の都市を建設して進んだ。しかし征服した地域はペルシア人の役人や土着の民族の統治に任せるようになった。しだいににアレクサンドロスはオリエントの専制君主であったペルシア王の後継者として振る舞うようになり、王の神的権威を強めていった。マケドニア人の中にはペルシア風の跪拝礼きはいれい(プロスキュネシス)を拒否して処刑されるものも現れた。遠征はなおも続き、バックトリア・ソグディアナを征服したのちインドに侵入したが、ついに兵士がそれ以上の進軍を拒んで大王もやむなくスサに帰還した。スサでは大王以下マケドニア人1万人とペルシア女性の婚礼をおこない、東西文化融合策をおこなう姿勢を示したが、そのすぐあと大王は熱病のため33歳で急逝した。彼の支配領域は空前の広大さに達していたが、支配機構はペルシア時代のままにとどまっており、民族・文化の融合策もほとんど進まないうちに彼の死によって大帝国は崩壊することになった。

同義語
アレクサンドロス3世

同時代の人物

稲作の始まり

福岡市の板付遺跡は縄文末期から弥生初期の遺跡で、水田跡から人の足跡や炭化米が発見されていることから、水稲栽培が行われていたことを実証する遺跡として知られている。

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