詳説世界史研究
オリエントと地中海世界
ギリシア世界
アレクサンドロス大王
ギリシアのポリスを支配するようになったフィリッポス2世 Philippos Ⅱ(位前359〜前336)はギリシア文化の愛好者で、息子のアレクサンドロスのためにアリストテレスを招いたりした。
さらにダレイオスを追撃してアルベラ・ガウガメラの戦い(前331年)でも圧勝して首都ペルセポリスを焼き払い、アケメネス朝を滅ぼした。
アレクサンドロスはギリシア同盟軍を解散させて、それからはペルシア兵士をも用いてさらに東方への遠征に向かった。エジプトのナイル河口にギリシア風の都市を建設してアレクサンドリア Alexandria と名付けたのをはじめに、各地の軍事・交易の拠点に同名の都市を建設して進んだ。しかし征服した地域はペルシア人の役人や土着の民族の統治に任せるようになった。しだいににアレクサンドロスはオリエントの専制君主であったペルシア王の後継者として振る舞うようになり、王の神的権威を強めていった。マケドニア人の中にはペルシア風の跪拝礼(プロスキュネシス)を拒否して処刑されるものも現れた。遠征はなおも続き、バックトリア・ソグディアナを征服したのちインドに侵入したが、ついに兵士がそれ以上の進軍を拒んで大王もやむなくスサに帰還した。スサでは大王以下マケドニア人1万人とペルシア女性の婚礼をおこない、東西文化融合策をおこなう姿勢を示したが、そのすぐあと大王は熱病のため33歳で急逝した。彼の支配領域は空前の広大さに達していたが、支配機構はペルシア時代のままにとどまっており、民族・文化の融合策もほとんど進まないうちに彼の死によって大帝国は崩壊することになった。
同時代の人物
稲作の始まり
福岡市の板付遺跡は縄文末期から弥生初期の遺跡で、水田跡から人の足跡や炭化米が発見されていることから、水稲栽培が行われていたことを実証する遺跡として知られている。