エドワード3世(イングランド王)
A.D.1312〜A.D.1377
プランタジネット朝第7代イングランド王(在位1327〜1377)。エドワード2世(イングランド王)の子。フランスでカペー朝が断絶すると、カペー朝フィリップ4世(フランス王)の孫として王位を主張してフランスに侵入し、百年戦争をおこした。子・エドワード黒太子の活躍があったが、戦略に失敗。戦費増加やペストに苦しんだ。毛織物生産の振興を図り、経済発展に貢献した。
エドワード3世(イングランド王)
50年間在位し、イングランドを強国に育て上げ、百年戦争を開始した。父はエドワード2世、母はフィリップ4世(フランス王)の娘イザベラ。妃はギヨーム1世(エノー伯)の娘フィリッパ。長男にエドワード黒太子がいる。神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世は義兄にあたる。
百年戦争を始める
エドワード2世(イングランド王)の子。フランスでカペー朝が断絶すると、カペー朝フィリップ4世の孫として王位を主張。百年戦争が始まった。子・エドワード黒太子の活躍があったが、戦略に失敗。戦費増加やペストに苦しんだ。毛織物生産の振興を図り、経済発展に貢献した。
血統をもとに隣国の王位を狙う
シャルル4世(フランス王)が死去してカペー朝が断絶するとヴァロワ朝フィリップ6世(フランス王)が国王に。だが、先王の甥で野心家のエドワード3世は王位継承権を要求。親英家のフランドル伯を味方につけ、フランス本土に上陸。1337年、百年戦争の火ぶたが切られた。
ヨーロッパ世界の形成と発展
西ヨーロッパ中世世界の変容
ヴァロワ朝の成立と前期百年戦争
1328年フランスのカペー王家が断絶すると、ヴァロワ家のフィリップ6世(フランス王)が即位し、ヴァロワ朝が成立した。大陸におけるイギリス勢力の一掃をはかる国王は、折からイギリスとスコットランドが抗争中であることを利用し、1377年ギエンヌ公領の没収を宣言した。
これに対し、エドワード3世(イングランド王)は、同年自己のフランス王位継承権を主張し、1339年には北フランスに侵入して戦端を開いた(百年戦争 1339〜1453)。その後、間歇的ながらも、1世紀以上にわたり戦争は展開されることになる。
この戦争の背景には、ヨーロッパ有数の毛織物業地帯フランドルの支配をめぐる両国間の積年の対立と、これを契機にアンジュー帝国の再現をもくろむイギリス王家の野心があった。
百年戦争は、常にフランスを戦場に戦われた。初期の戦いでは、まずフランドルのスロイス沖の海戦でイギリス軍は大勝し、フランス軍は英仏海峡の制海権を失った。
続くクレシーの戦いでも、エドワード3世率いるイギリスの長弓(ロングボウ)隊は数において勝るフランスの重装騎士と弩(クロスボウ)隊を撃破し、翌年海港都市カレーを占領した。
また南フランスでは、エドワード黒太子の指揮するイギリス軍がポワティエの戦いでフランス軍を破り、国王ジャン2世(フランス王)を捕虜にするなど、常に戦闘はイギリスの優勢のうちに推移した。
この間、フランスは黒死病(ペスト)の大流行に見舞われ、1358年にはパリ市民の反抗とジャックリーの乱が勃発した。しかし、王太子シャルルはこれらの騒乱を鎮圧すると、イギリス軍の攻勢によく耐え、結局ブレティニー・カレー条約(1360)を結んで、エドワードの手からフランス王位を守り抜いた。彼はまもなくシャルル5世(フランス王)として即位すると、軍政改革と王室財政の強化に努め、イギリス側に奪われた領土の多くを回復していった。
カレーの市民
1347年8月3日、ドーヴァー海峡に面したカレーは1年近いイギリス軍の攻囲戦に疲れ、ついに落城した。このときエドワード3世は市民の皆殺しを要求したが、結局6人の名士市民が人質となることで、残る市民の命は救われることになった。
東京上野の西洋美術館の庭に、この事件をモチーフにしたロダンの彫刻「カレーの市民」が展示されている。
後期百年戦争とフランスの集権化
その後、フランスではシャルル6世(フランス王)(位1380〜1422)が狂気の発作を起こすようになり、国内はオルレアン公・アルマニャック伯側とブルゴーニュ公側に別れて内乱状態に陥った。またイギリスでは、エドワード3世(イングランド王)に次いで即位したリチャード2世(イングランド王)がワット・タイラーの乱鎮圧後次第に専制化して諸侯や議会の反発を招き、ついにランカスター公のヘンリー(ヘンリー4世(イングランド王))により王位を追われ、ランカスター朝の成立を見ることになった。
参考 詳説世界史研究