生涯
1327年、父王・エドワード2世が母イザベルとその愛人で寵臣だったマーチ伯ロジャー・モーティマーに廃されたため、15歳で即位した。しかし若年のため、しばらくはこの両者による政治の壟断が行なわれた。
1330年3月、エドワードの叔父にあたるケント伯エドマンドがロジャーによって処刑された。国王に無断での処刑に怒ったエドワード3世は、11月に宮廷革命を起こして母とロジャーを逮捕し、母は終身幽閉処分に、ロジャーは死刑にして実権を取り戻した。
前半期の成功
- 国内の統治を安定化させると、エドワード3世は親征に乗り出し、1333年にスコットランドを制圧、エドワード・ベイリャルを王に立てた。この戦いで敗北したデイヴィッド2世はフランスに逃げ、フィリップ6世に援助を求めている。
- 内政においてフランドルの織物技術の導入から国内産業の充実
- 歩兵中心の常備軍や海軍の拡充
- 1348年にガーター騎士団を創設して教会に対する統制力強化
- 1366年に教皇庁との封建的主従関係を解消
- 王の軍費調達の要求を通して庶民院の力を強め、議会政治の発展
百年戦争
- カペー朝最後の王・シャルル4世(フランス王)は、1324年にアキテーヌを巡ってイングランド王エドワード2世(妹イザベラの夫)と激突、叔父のヴァロワ伯シャルルの助けを得てエドワード2世(イングランド王)に勝利、翌年にフランス優位の和睦を結んだ。1328年にイザベラとエドワード2世の子で甥のエドワード3世との間で改めて和睦を結んだが、同年に死去。跡継ぎがいなかったためカペー朝は断絶する。
- カペー朝の支流でヴァロワを所領とするヴァロワ家からフィリップ6世(フランス王)が即位してヴァロワ朝が始まる。
- エドワード3世(イングランド王)は、母がカペー家の王女だったためフランス王位継承を主張すると、フィリップ6世は、スコットランドと呼応して1337年5月にアキテーヌ公領没収を宣言し、ガスコーニュに軍を進めたため、11月にエドワード3世はフランスに宣戦布告した。これにより、百年戦争が開始された。
- 1340年 スロイス沖海戦でフランス軍に勝利。
- 1346年 ノルマンディーから上陸したイングランド軍は北上して、エドワード黒太子の活躍もあり、クレシーの戦いでフランス軍に大勝。
- 同年、フランスと手を結んだスコットランドに対してもネヴィルスクロスの戦いで勝利。
- 1356年 ポワティエの戦いでもフランス軍に勝利。フランス王ジャン2世を捕虜とする。
- フランスに対して優勢にあった1360年には両国の和議が成立し、エドワード3世はフランス王位継承権を放棄する代わりに、ガスコーニュ、アキテーヌ、カレー、ポンティウ、ギーヌなどの広大な領土を獲得するという、圧倒的に有利な条約を締結した。
晩年
- 1369年からフランス王シャルル5世の巻き返しが行なわれ、ペストの流行による国内の疲弊や兵力の減少もあって、カレー、ボルドー、バイヨンヌを除いたフランス領土を失う。
- エドワード黒太子も病に倒れてイングランド軍は有能な指揮官を欠き、1375年のブリュージュ(ブルッヘ)の和議によってイングランド・フランスの戦争は、いったん終結するものの、前半期にフランスから奪い取った領土の大半を失うに至る。1369年、王妃フィリッパを失い、エドワード3世は、若い頃の果断な指導力や決断力を失い、実権を四男のランカスター公ジョン・オブ・ゴーントに奪われて精彩を欠いた。
- エドワード黒太子がフランスから帰国すると実権を取り戻して共同して国政改革に取り組んだものの、戦争による赤字財政や情勢の不利などから遅々として進まず、1376年には黒太子を失うに至る。
- 愛人のアリス・ペラーズを溺愛して政治への介入を招き、イングランド王室は混乱した。
- 1377年6月21日、エドワード3世はシーン離宮で66歳で亡くなり、王位はエドワード黒太子の長男である嫡孫のリチャード2世が継承した。
参考 Wikipedia