カラ・フレグ (不詳〜1252年)
モンゴル帝国の皇族でチャガタイ・ハン国の第2代君主。在位:1242年〜246年,1251年。
チンギス=ハンの次男チャガタイの長男であるモエトゥケンの四男。
カラ・フレグ
オイラト王家出身のオルクナ・ハトゥンを娶り、彼女との間に後にムバーラク・シャーを儲けた。『元史』では合剌旭烈大王、『集史』などのペルシア語表記では قرا هولاكو Qarā Hūlākū、『高貴系譜(Mu’izz al-Ansāb)』では(一部、『五族譜(Shu’ab-i Panjgāna)』でも) قرا هولاووQarā Hūlāwū とも書かれる。
概要
バトゥ・モンケとグユクによる後継者争いでは中立を保っていたが、叔父イェス・モンケ(チャガタイの五男)はグユクを強力に支持した。
このため1246年にグユクが第3代大ハーンとして即位すると、若年であるから当主にふさわしくないとしてグユクの介入を受けて当主の座を追われ、新たにイェス・モンケが即位した。
グユクの死後、1251年にモンケ第4代大ハーンに即位すると、グユク支持者だったイェス・モンケはモンケの介入を受けて廃され、代わってカラ・フレグが復位することになった。しかしカラ・フレグは正式に当主として承認してもらうためにモンケの許に赴く途中で病死したという。
カラ・フレグ没後のチャガタイ・ウルス当主の変遷
カラ・フレグが死去した後、モンケから命じられたイェス・モンケの処刑は妃であったオルクナが執行し、チャガタイ家の統治も彼女が代行した。
オルクナとの実子であったムバーラク・シャーはカレ・フレグが亡くなった時はまだ幼少だったようで、モンケの治世中はオルクナが当主を代行してチャガタイ家を取り仕切った。
1259年にモンケが死去し、フビライとアリクブケが後継をめぐって争うことになった。(モンゴル帝国帝位継承戦争) この最中、フビライの意向によってブリの長男アビシュカをチャガタイ家の当主となるよう派遣され、寡婦となっていたオルクナ・ハトゥンに娶らせようとした。しかし、その道中でアリクブケの軍が彼を捕縛してアリクブケのもとへ連行し、アリクブケに組みしていたモンケの長男アスタイによって処刑された。今度は、アリクブケの命令により、アビシュカに替わってチャガタイの六男バイダルの息子であったアルグがチャガタイ家の家督を受継ぐよう命じられた。
このように、モンケの他界後、チャガタイ家の当主が空位のままであったことからモンゴル帝国の皇帝位の継承問題に影響される形で、その家督を巡ってフビライ・アリクブケ両陣営で争奪する様相を見せ、また当主位の継承がカラ・フレグの寡婦であったオルクナとの婚姻も併せて交替する事態となった。ムバーラク・シャーがチャガタイ家の家督を継いだのはフビライがアリクブケを破り、アルグも没した1266年であった。しかし、このムバーラク・シャーの家督もカラ・フレグの甥であったバラクに実力で奪われる事になる。