カール・マルテル
カール・マルテル ©Public Domain

カール・マルテル


ピピン2世

ピピン3世

Previous Post

Next Post

カール・マルテル( A.D.686〜A.D.741)
メロヴィング朝フランク王国全体の宮宰。ネウストリアの宮宰を打倒し、王国の再統一をはかったアウストラシアの宮宰ピピン2世の子。732年トゥール・ポワティエ間の戦いで、イベリア半島から北上するイスラーム軍を撃退。カロリング家の権威は絶大なものとなり、子のピピン3世は王位についてカロリング朝を開いた。

カール・マルテル

イスラームの快進撃を食い止める

フランク王国の宮宰。カール大帝の祖父にあたる。内輪もめさせることで、メロヴィング家の諸王の力を削ぎ、王国の事実上の支配者となる。東西へ領土を広げ、732年にはトゥール・ポワティエ間の戦いで、イベリア半島から北上するイスラーム軍を撃退した。

created by Rinker
¥800 (2024/11/20 22:28:44時点 Amazon調べ-詳細)
ASIN: 4418122362

イスラームから西欧を守る

カロリング家出身のフランク王国宮宰。8世紀の西ヨーロッパは、イスラーム軍の攻撃を受け、危機に瀕したが、マルテルは、トゥール・ポワティエ間の戦いでイスラーム軍を撃破。以後、イスラーム式の騎兵中心の軍制にした。

created by Rinker
¥378 (2024/11/20 22:14:12時点 Amazon調べ-詳細)
ASIN: 4791620615

ヨーロッパ世界の形成と発展

ヨーロッパ世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ
ヨーロッパ世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

西ヨーロッパ世界の成立

フランク王国の発展とイスラームの侵入

アウストラシアの宮宰であったカロリング家ピピン2世(中ピピン)は、7世紀末に対立するネウストリアの宮宰を打倒し、王国の再統一をはかった。

ピピン2世(中ピピン)が没し、その子カール・マルテルが宮宰になった8世紀初頭にはイスラーム軍がイベリア半島の西ゴート王国を滅ぼし(711年)、ピレネー山脈を超えてフランク領内に侵入してきた。カール・マルテルは騎士団を編成してこれを迎え撃ち、トゥール・ポワティエ間の戦いで勝利した(732年)。

フランク王国 フランク王国の発展とイスラームの侵入
メロヴィング朝フランク王国(600年頃) @Wikipedia

カロリング家の権威は絶大なものとなり、マルテルの子ピピン3世(小ピピン)は、751年ザカリアス(ローマ教皇)の同意のもとにメロヴィング家の王国キルデリク3世を廃し、みずから王位についてカロリング朝を開いた。

トゥール・ポワティエ間の戦い

イスラーム軍の攻撃に耐えかねたアキテーヌ公ウードは、やむをえず北ガリアの支配者であった宿敵カール・マルテルに救援を要請した。マルテル(鉄槌てっついの意)はイスラーム騎兵に対抗するため、重装騎兵を中核とする軍を編成して南下した。イスラーム軍はポワティエを攻め、つづいてキリスト教の聖地のひとつであるトゥールをめざして北上、732年10月ついに両軍は激突した。
有名な戦闘のわりには史料がとぼしく、詳細は明らかではないが、この戦闘でイスラーム側は将軍のアブド・アッラフマーンを失い、敗退した。そのため、トゥールの聖マルタン修道院はイスラーム軍の略奪から逃れることができた。
また、これ以後イスラーム勢力のピレネー以北への進出は食い止められ、フランク社会におけるカール・マルテルおよびカロリング家の地位はいっそう強化された。ただし、その後イベリア半島と地中海一帯が長らくイスラームの支配下におかれたことを考えると、この戦闘の意義を過大に評価することはできない。

ローマ・カトリック教会の成長

東西両教会の対立を深めたもうひとつの要因に、聖像崇拝論争がある。元来キリスト教は偶像崇拝を禁止していたが、異教徒への布教の必要から、ローマ教会は聖像(キリストや聖者の画像・彫像)の使用を容認した。しかし、東ローマ帝国では小アジア地方を中心に聖像禁止派の勢力が強く、また皇帝専制の障害となる修道院勢力が聖像崇拝派であったことなどから、726年、東ローマ帝国イサウリア朝初代皇帝レオン3世(717〜741)は聖像禁止令を発布した。その結果、ローマ教会は東ローマ帝国にかわる政治勢力を新たに求めるようになった。

そこに登場したのがフランク王国の宮宰カール・マルテルである。カール・マルテルはイスラーム軍を撃退し、フランク王国の実質的な支配者となっていたが、メロヴィング王家にとってかわるためになんらかの権威が必要であった。また、ランゴバルド王国の南下に苦しむローマ教皇も、有力な保護者を待ち望んでいた。そこで751年、ピピン3世(小ピピン)がクーデターにより即位すると、教皇はこれを祝福した。小ピピンもこれに応えてイタリア遠征をおこない(754、756)、ランゴバルド人を討って領土を奪い、ラヴェンナおよびペンタポリス地方を教皇に献じた。このいわゆる「ピピンの寄進」により、教皇領が成立することになった。

参考 詳説世界史研究

子女

  • カールマン(706/13年 – 754年) – 宮宰(741年 – 747年)
  • ピピン3世(714年 – 768年) – 宮宰(741年 – 751年)、フランス王(751年 – 768年)

参考 Wikipedia

フランク王系図

フランク王系図
フランク王系図 ©世界の歴史まっぷ
広告
Previous Post

Next Post