ガウタマ・シッダールタ (釈迦) 紀元前463年 – 紀元前383年(諸説あり)
仏教の開祖。16歳で出家し、6年間苦行を積み、ブッダガヤの菩提樹の下で瞑想に入り坐禅を続け、35歳のとき悟りを得る。悟りを開いた者を「仏陀」という。古代インドでは、生物は過去の行い(業)の影響を受けながら生死を繰り返すという「輪廻転生」が信じられていた。仏陀は、苦から逃れるために、輪廻転生からの「解脱」を説いた。
ガウタマ・シッダールタ
6年間の修行と瞑想で「悟り」を開く
紀元前6〜5世紀、インドでは多くの都市国家が成立したいた。ガンジス川流域で覇権を争ったコーサラ国とマガダ国、このヒマラヤ山麓の2国にはさまれて、釈迦族の小国があった。このカピラ国に生まれた王子が、ガウタマ・シッダールタである。誕生直後に「天上天下唯我独尊」と発生したという逸話も残されている。
ガウタマは16歳で結婚。子を得るが、やがて人間として生きるが故の苦しみを考えるようになった。生・老・病・死。これらの「苦」からの脱却を求め、29歳のガウタマは、家族と地位を捨てて出家した。
しかし難行苦行を積んだが、肉体酷使では解決に至らないことに気づいた。ガウタマはブッダガヤ(インド、ビハール州ガヤー県)の菩提樹の下で瞑想に入る。座禅を続け、ついに35歳で悟りを得た。悟りを得たものを「覚者かくしゃ」の意味で「仏陀」という。仏陀となったガウタマは、以後説教を説いて回った。
古代インドでは、生物は過去の行い(業)の影響を受けながら生死を繰り返すという「輪廻転生」が信じられていた。仏陀は、苦から逃れるために、輪廻転生からの「解脱」を説いた。解脱するには、まず世の「無情」を自覚し、そして苦の原因となる4つの真理(四諦)を明らかにする。形ある物は滅びるのが定め。物や人に執着せず、心の持ち方で「苦」を滅し、安らぎを手にすることができるとした。そのための正しい生活法の実践を八正道としてまとめた。
布教と弟子のつくった経典で「仏教」が広まる
仏陀のもとには多くの弟子が集まり、教団が形成された。苦行を必要としない日常の浄化をうたう説教は、カースト(身分制度)を超越して受け入れられた。死までの45年間の布教と、死後弟子たちの活動により、仏陀の教えは世界三大宗教のひとつ「仏教」として広まった。「経典」は仏陀の説法を弟子たちが編纂したものである。
仏陀入滅後、自らの解脱を目指す上座部仏教(小乗仏教)と、それよりも他者の救済を優先する「大乗仏教」が誕生し、アジア各地に広まった。日本に主流として広まったのは大乗仏教である。
人生の「苦」を考えた王子
何不自由ない生活を送っていた王子・ガウタマが出家して苦しみからの脱却を思い立ったのは「四門出遊」の経験から。白の東門で老人、南門で病人、西門で死者にあい、人間として生まれたら避けることができない苦しみを目のあたりにし、最後に北門にて修行者にあい、出家を決意したという。
悟りを開き、布教に努めた仏教の開祖
南アジアではインダス文明が衰えた後、アーリア人の移住が始まり、バラモンを頂点とする階級社会が築かれる。やがてこれに異を唱えるものが出てくるが、その中の一人にブッダがいた。
ブッダはヒマラヤ山脈に依るシャーキャ族の有力者の家に生まれ、何不自由なく育てられるが、29歳のとき「四門出遊」という経験をきっかけに出家する。東門を出たところで老人を、南門を出たところで病人を、西門を出たところで死者を目撃したことに強く心を動かされ、次いで北門を出たところで修行者に出会い、問答のすえ求法の道に入ることを決めたというのである。
それから6年間の苦行の後、ナイランジャナー河(尼連禅河)のほとりにある菩提樹の下で悟りを開き、やがて布教を始めた。数々の危険に見舞われるが、ブッダはその都度奇跡を起こして乗り切った。
世界遺産
ブッダガヤの大菩提寺(マハーボーディ寺院)
ガウタマが悟りを開いた場所にある寺院は、「ブッダガヤの大菩提寺」として世界遺産に登録されている。
ブッダガヤの大菩提寺 – 世界の歴史まっぷ
アジア・アメリカの古代文明
インドの古代文明
新思想の成立
ガウタマ・シッダールタ(紀元前566頃〜紀元前486頃)はコーサラ国の属国であるヒマラヤ山麓に住むシャーキャ(釈迦族)の有力者の家に生まれた。身分はクシャトリヤであったが、29歳の時出家し、35歳のときブッダガヤの菩提樹の下で悟りを開いた。その後80歳で没するまでガンジス川の中・下流域を旅してまわり教えを説いた。悟りを開いてからはブッダ(仏陀・真理を悟ったもの)、シャーキヤムニ(釈迦牟尼・釈迦族出身の聖者)などの尊称で呼ばれる。
彼によって開かれた仏教は、いっさいのものは滅びる(諸行無常)という無常観にたち、人生を「苦」とみてその苦を克服する道を求めたものである。ブッダは正しい生き方を中道と称し、極端な苦行と快楽を否定し、8つの正しい道(八正道)の実践に努め、自我の欲望(煩悩)を捨てることによって解脱、すなわち涅槃(寂滅)の境地に達することができると説いた。こうした教理は主として解脱を求める出家者(比丘)にむかって説かれたものである。その一方でブッダは、一般の信者に対して、道徳的に正しい生き方と慈悲の尊さを説いている。その教えはとくに都市に住むクシャトリヤや商工業者に歓迎され、通商路に沿って伝えられた。
ブッダの死後、教えが失われたり異説が生じたりすることを恐れた弟子たちは、一堂に会して正しい説を決定した。これを第1回の仏典結集という。その後しばらく教団の統一が維持されたが(原始仏教時代)、ブッダの死後100年ほどして第2回の結集が開かれた頃から分裂を始め、多数の部派が誕生した(部派仏教時代)。それぞれの部派は自派の正統性を主張するため三蔵と称される経典を編集するにいたった。
またこの時代をつうじてブッダの理想化が進み、ブッダの過去世における善行を語ったジャータカ物語(本生和)が成立し、ブッダの遺骨をおさめた塔(ストゥーパ)の崇拝がさかんになった。
ブッダの四大聖地
ブッダの生涯に関係ある土地は、後世の仏教徒の巡礼地となった。インドを旅した中国僧たちも、これらの聖地巡礼を目的のひとつとしていた。そうした聖地の中でも、以下が四大聖地として知られた。①ブッダ誕生の地・カピラヴァストゥ、②ブッダが悟りを開いた地・ブッダガヤ、③ブッダが最初に法を説いた地・ヴァーラーナシーのサールナート(鹿野園)、④ブッダの涅槃の地・クシナガラ
ブッダの生没年
古代インドの確実な年代を知ることはきわめて困難である。そうした年代確定の基点となるのがアショーカ王の即位年で、これは同王の碑文に名を記された5人のギリシア人の王の在年との関係から紀元前268年ころであることがわかっている。
問題はこの年からいく年さかのぼったところにブッダの没年(仏滅年)を求めるかにあり、中国など北方に伝わった年数(100年あるいは116年)とスリランカなど南方に伝わった年数(218年)のどちらをとるかで大きく2説に分かれる。前者によれば、ブッダの没年は紀元前368/384年ころ、後者によれば紀元前486年ころということになる。ブッダの生涯が80年であったという伝承は共通であるから、生没年は紀元前448/464〜紀元前368/384、あるいは紀元前566〜紀元前486となる。ブッダの時代はマガダ国の強大化の始まった時代であるから、生没年の決定は思想史にとどまらず政治史・経済史に大きく関わるのである。なお、今日の南方仏教では、仏滅年を紀元前544年とするブッダ暦が広く用いられている。