キプチャク・ハン国 モンゴル帝国 モンゴル帝国の最大版図と各ハン国
モンゴル帝国の最大版図と各ハン国 ©世界の歴史まっぷ
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キプチャク・ハン国 (13世紀〜1783年)
黒海北岸のドナウ川、クリミア半島方面から中央アジアのカザフ草原、バルハシ湖、アルタイ山脈に至る広大なステップ地帯を舞台に、チンギス=ハンの長男ジョチの後裔が支配し興亡した遊牧政権(ウルス)。ジョチ・ウルスとほぼ同じものである。首都はサライ

キプチャク・ハン国

世界史対照略年表(1300〜1800)
/>世界史対照略年表(1300〜1800) ©世界の歴史まっぷ

内陸アジア世界の変遷

キプチャク・ハン国
内陸アジア世界の変遷 ©世界の歴史まっぷ

モンゴル民族の発展

モンゴル帝国の成立

1236年、チンギス=ハンの遺命により、長子ジョチの子バトゥヨーロッパ遠征モンゴルのルーシ侵攻バトゥの西征)に出発した。ヴォルガ河畔からロシアに侵入したバトゥの遠征軍は、キエフ公国を壊滅させ、ロシアの主要都市を次々と攻略したほか、その一隊はポーランド、ハンガリーに侵入し、1241年、リーブニッツに近いワールシュタットでシュレジエン候ハインリヒ2世の率いるドイツ・ポーランドの諸侯連合軍を破った( ワールシュタットの戦い)。さらにハンガリーの首都ペストも攻略して、ヨーロッパ世界に脅威を与えたが、オゴタイが没すると、バトゥの遠征軍はヴォルガ河畔まで後退し、下流のサライを都としてキプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)をたてた。

モンゴル帝国の成立 – 世界の歴史まっぷ

キプチャク・ハン国
ヨーロッパ世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

歴史

成立

1206年、チンギス=ハンが即位し、モンゴル帝国を興すにあたって、長男ジョチにアルタイ山脈方面に4個の千人隊からなるウルスを与え、イルティシュ川流域に遊牧させたのがジョチ・ウルスの起源である。
1224年頃、ジョチが父・チンギスに先立って死去した後、次男のバトゥがジョチ家の家長となり、ジョチがチンギスに命じられていた、南シベリアから黒海北岸に至る諸地方の征服の任を受け継いだ。
1235年、クリルタイでの決定に従って、モンゴル帝国第2代皇帝オゴタイ=ハンはバトゥを総司令官とするヨーロッパ遠征軍を派遣し、バトゥはヴォルガ中流域のブルガール、草原地帯のキプチャクなどのテュルク系、フィン・ウゴル系の諸民族、北カフカスまで征服して支配下に置き(モンゴルのヴォルガ・ブルガール侵攻)、ルーシ(キエフ大公国),ポーランド,ハンガリーまで進撃した(モンゴルのルーシ侵攻、モンゴルのポーランド侵攻)。
1242年、バトゥはオゴタイ=ハンの訃報を受けて引き返し、オゴタイ=ハンの後継が決まらず紛糾するのを見て、ヴォルガ川下流に留まることを決め、サライを都とするとともに、周辺の草原地帯を諸兄弟に分封して自立政権を築いた。

左右両翼体制の確立

建設当初のジョチ・ウルスはウルスの西半分(右翼ウルス)をヴォルガ川流域に遊牧する全ウルスの宗主バトゥの王統が統括し、東半分(左翼ウルス)をイルティシュ川流域に遊牧するバトゥの兄オルダの王統が統括した。『集史』によればジョチの世嗣とみなされていた兄弟は彼ら2人を含め14人いたことが知られているが、麾下の諸軍と兄弟たちをバトゥとオルダ両人で折半してこれを統括下に置いている。
すなわち、バトゥはジョチの三男であるベルケ、四男ベルケチェルを恐らく中軍(コル)とし、右翼諸軍は五男シバン(シャイバーン)を司令として六男タングト、七男ボアル、八男チラウカン、十男チンバイら8人を麾下において中軍と右翼諸軍からなる右翼ウルスを形成した。
一方のオルダは九男ソンコル、十二男ウドゥル、十三男トカ・テムル、十四男セングムら4人を麾下において左翼諸軍からなる左翼ウルスを形成した(資料によっては十一男ムハンマド・ボラと九男ソンコルが入れ替る場合もある)。
このバトゥ(あるいはシバン)の右翼ウルスをバトゥ・ウルス、オルダの左翼ウルスをオルダ・ウルスと呼ぶ。
さらに属国として、ルーシの諸公国が従えられた。ルーシの諸公はサライのハンに対して納税の義務を負うとともに、しばしばサライへの出頭を命ぜられ、公の任免や生殺与奪をハンに握られた。ルーシの人々は、ジョチ・ウルスの人々をタタールと呼んだため、この属国としての状況を指して「タタールのくびき」という。

滅亡

クリコヴォの戦い以降、モスクワ大公国が急速に力をつけしだいに貢納を滞るようになり、1480年サライの大オルダの君主アフマド・ハンは大軍をもって進軍したが、モスクワ大公イヴァン3世に敗れてルーシの支配力を失った(ウグラ河畔の対峙)。大オルダは1502年にクリミア・ハン国によってサライを攻略されて滅ぼされた。
16世紀の間にカザン、アストラハン、シビルの各ハン国も次々にロシア・ツァーリ国に併合された。大オルダのハン位の継承者を名乗った最後のハンとなったクリミア・ハン国は、フメリニツキーの乱でザポロージャ・コサックの独立に影響力を見せたが、1783年に至ってロシア・ツァーリ国に併合され、より影響力の大きなロシア帝国に変貌してポーランド分割に影響を与えた。多くの場合、大オルダの滅びた1502年か、クリミア・ハン国が滅びた1783年をもってジョチ・ウルスの滅亡としている。
なお、ウズベクでジョチの子孫のハンが絶えたのは1804年で、カザフではロシア革命までジョチの子孫が王族として君臨しつづけた。

歴代君主

ジョチ・ウルス(バトゥ・ウルス)の当主

  1. ジョチ(1220年 – 1225年)…チンギス=ハンの長男
  2. バトゥ(1225年 – 1255/56年)…ジョチの次男
  3. サルタク(1256年)…バトゥの長男
  4. ウラクチ(1256年?)…バトゥの子。
  5. ベルケ(1256年? – 1266年)…ジョチの三男。バトゥの弟。
  6. モンケ・テムル(1266/67年 – 1280年?)…バトゥの子トガンの子。
  7. トダ・モンケ(1281年? – 1287年)…トガンの子。モンケ・テムルの弟。
  8. トゥラ・ブカ(トレ・ブカ)(1287/88年 – 1291年)…トガンの子ダルブの子。
    • ゴンチェク…トゥラ・ブカの弟
    • アルグイ…モンケ・テムルの長男
    • トゴリルチャ…モンケ・テムルの子
  9. トクタ(1291年 – 1312/13年)…モンケ・テムルの子
  10. ウズベク・ハン(1313年 – 1342年)…モンケ・テムルの子トゴリルチャの子。
  11. ティーニー・ベク(ティニベク・ハン)(1342/43年)…ウズベク・ハンの子。
  12. ジャーニー・ベク(ジャニベク・ハン)(1342/43年 – 1357年)…ウズベク・ハンの子。
  13. ベルディ・ベク(ベルディベク・ハン)(1357年 – 1360/61年?)…ジャーニー・ベクの子。
  14. クルナ(クルパ)(1358/59年 – 1359/60年?)…ジャーニー・ベクの子。ベルディ・ベクの弟。
  15. ナウルーズ(1358/59年 – 1360/61年)…ウズベク・ハンの未亡人タイトグリと結婚。
  16. ヒズル(1358年 – 1359/60年?)…シバン家
  17. テムル・ホージャ(1359/60年?)…ヒズルの子。
  18. オルド・マリク
  19. ケルディ・ベク(1360年 – 1362年)…ウズベクの子

Wikipediaより

系図

キプチャク・ハン国
チンギス=ハン家略系図

キプチャク・ハン国が登場する作品

フビライ・ハン

キャプチャク・ハン国
フビライ・ハン ©)Beijing Sunshine Sheng Tong Culture and Arts Co. Ltd.

フビライ・ハン(ドラマ) あらすじと登場する歴史上の人物 – 世界の歴史まっぷ

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