キリスト教
ナザレのイエスをキリスト(救済者)と信じ、イエスの行動と教えを中心に神の愛と罪の赦しを説き、旧・新両聖書に基づき個人と社会の再生を促す宗教。パレスチナにおこり、ローマ帝国の国教となり、さらに世界各地に広まった。現在、各国に多くの信徒を有し、仏教・イスラム教とともに三大宗教のひとつ。東方正教会・ローマ・カトリック教会・プロテスタント諸教会などに大別される。
キリスト教
オリエントと地中海世界
ローマ世界
キリスト教の成立
キリスト教が生まれたパレスチナではヘブライ人が一神教を守り続け、それは紀元前6世紀ころユダヤ教として確立した。これはユダヤ人の民族宗教で、彼らは強国の支配のもとでも信仰を守り、民族としての一体感を失わずにヘレニズム時代には一時独立し、やがてローマの属州となったが、ヘロデ王の時にはローマに服属する王国となっていた。
しかしユダヤ教の内部は、王とともにローマと友好的な貴族や神殿の祭司たちと、神の戒めである律法を細かく研究し、ユダヤ教の知識を独占して守ろうとするパリサイ派と呼ばれる学者たち、また熱狂的な反ローマの民族主義者たち、禁欲的な修道生活を送る人々、などに分かれていた。
禁欲的な人々の中からまず洗礼者と呼ばれるたヨハネが出て祭司ら上層ユダヤ教徒の堕落を批判し、神の怒りと裁きが近いことを宣言し、悔い改めを勧めて洗礼運動を始めた。彼はヘロデ王一族を非難して捕らわれ、殺された。
ナザレのイエスは、ヨハネの影響を受けたと思われるが、29年ころガリラヤ地方で活動を始め、パリサイ派や祭司たちの律法主義と堕落を批判し、神の愛が身分や貧富の差に関係なく全ての人におよぶこと、その神を信じて人はおのれを愛するように隣人を愛し、敵のためにすら祈るべきことを説いた。
彼は自然や人間生活の具体的な例をひき、それらを時には逆説的にとらえて、古い律法は人を救いにいたらせないこと、彼の教えが新しい律法であり、神の国は信じる人の心の中にすでに来ており、今やさし迫った最後の審判においてその到来は完成すると宣言した。しかしイエスは政治的な権威には従うべきことを教え、禁欲的な生活も勧めなかった。
彼は社会的な弱者や病人、差別された人々をいたわり、癒した。女性や下層の民衆の多くが彼を信じ、漁師や収税人らが弟子となり、彼らはイエスを神が遣わした救世主(メシア)、すなわちキリストであるとみなしたが、祭司・パリサイ派はイエスを危険視し、反ローマ的な民族主義者はイエスを政治的な指導者とみなそうとした。
イエスはやがてユダヤ教の中心地イェルサレムに祭りのために入ったが、彼に現世的な力ある救済者を期待した人々は次第に彼を離れ、祭司たちはイエスを捕らえ、ローマへの反逆を企てるものだとしてローマ総督ピラトゥスに告発した。イエスは審問を受けたが自分が神の子であるとのみ答えて死刑を宣告され、イェルサレム郊外のゴルゴタで十字架にかけられて処刑された。
間も無く弟子たちの間にかねてイエスが言っていたように、彼が復活したという信仰が生まれた。これを信じるものは集まって悔い改めと感謝をもって神を信じ、イエスの再臨と神の国の真の到来をまつ共同体をガリラヤやイェルサレムに形成した。ここに原始キリスト教が生まれたのである。
キリスト教の発展
最初のキリスト教徒たちは神の国と到来が近いと思っていたが、それは実現ぜず、彼らはイエスの教えを他のユダヤ人に伝道し始めた。
イエスの12人の弟子の第1であったペテロがまず中心となった。パレスチナから小アジア・ギリシアの都市へ伝道が行われ、信者の共同体である教会が生まれていった。
始めパリサイ派としてキリスト教徒を迫害したパウロが改宗し、異邦人(ユダヤ人以外の民族)への伝道を積極的におこなった。これらイエスの教え(福音)を伝える(宣教する)指導者を使徒といい、中でもパウロは多くの書簡でイエスの十字架の死は、神のひとり子による全ての人間の罪の贖いであること、旧約の予言とイエスの関係、教徒の信仰生活のあり方を説いて、原始キリスト教の教義の根幹を形づくった。
彼らの伝道で異邦人の信者も増え、1世紀後半には東方のほとんどのギリシア都市、そして首都ローマにまで教会が生まれた。伝道する使徒のために信者が献金し、教会同士の相互援助や貧民への施しが行われた。
キリスト教徒ははじめはユダヤ人が多く、礼拝や生活面ではユダヤ教のしきたりを守っていた。しかしユダヤ教徒は彼らへの敵意を強め、キリスト教の成立直後からしばしば迫害を行なった。ギリシア人の下層民や女性、解放奴隷や奴隷などが異邦人の中から改宗者となったが、一般のギリシア人・ローマ人にとっては初めはユダヤ教徒とキリスト教徒の区別がつけられず、ともに彼らは多神教をこばみ、とくに神々と皇帝の像を礼拝ぜず、都市の政治や社会生活にとけ込まない、いまわしい人々とみなされていた。
ローマ帝国第5代皇帝ネロの時代の64年ローマ大火が起こり、キリスト教徒がその犯人として処刑された。これがローマ帝国による初めての迫害であり、キリスト教徒が帝国によってその存在が認められた最初でもあるが、これは放火犯の処刑であってキリスト教迫害が目的であったわけではない。けれどもこの迫害の背景に、教徒はいまわしいものという人々の考えがあったということは確かである。
66年〜70年のユダヤ教徒の反乱(ユダヤ戦争)によって、これに加わらなかったキリスト教徒がユダヤ教徒からいよいよ明瞭に区別されるようになった。しかもキリスト教徒が偶像を拒むだけでなく、人の肉を食べるなどの悪徳にふけるものたちだという噂が一般に信じられていた。こうして異邦人、ことに都市の民衆たちによる迫害が2世紀ころからしばしば生じるようになっていった。また属州の総督や皇帝は2世紀にはキリスト教徒が告発されたらこれを受け付け、裁判で教徒であることを彼らが認めたら死刑に処するようになった。
ローマや小アジアの都市、ガリアのリヨンなどでは、このようにして多くのキリスト教徒が民衆の告発や暴行の迫害を受け殉教した。教徒の中には信仰をかたくなに守ってみずから殉教を求めるものも現れた。
ローマ総督プリニウスの審問
2世紀初め、小アジアのローマ総督小プリニウスは、キリスト教徒として告発されたものが肯定したら処刑したが、否定したら神々と皇帝の像に祭儀を捧げさせ、キリストを呪わせて、従ったら釈放した。またかつてキリスト教徒であっても、信仰を捨てて同じようにすれば釈放する許可をトラヤヌス帝から得た。以後ローマの当局は最後の迫害まで、徹底的な弾圧でなく祭儀させてキリスト教徒の屈伏を促そうとする手段をとった。
しかしながら3世紀の半ばまで、キリスト教徒への迫害は一時的なもので、おこなわれる地域も限定されていた。皇帝たちも無責任な告発や暴動のような迫害をむしろ禁止することが多かった。したがってキリスト教徒はかなり公然と伝道することができ、密儀宗教が人々を惹きつける風潮が進むなかで、彼らをひきつけていった。
信者の間の密接な関係、女性や貧民、奴隷も平等に礼拝すること、病人や死者に手厚く接することなどが知られるようになったことがその理由であったろう。
都市の富裕な階級もしだいにキリスト教に改宗するようになった。教会の組織も整えられ、司教が教会の頂点にあって強い指導力を持ち、その下に司祭・執事などがおかれ、ローマやアレクサンドリアなどの大教会は他教会を指導するようになった。
礼拝においてははじめからイエスの言葉やその解釈、使徒の証言や書簡が語られたり読まれたりしていたが、しだいに文書にまとめられた。それが『新約聖書』で、キリストの言行と受難をしるした4つの「福音書」、初代の使徒たちの宣教活動を述べた「使徒言行録」、そしてパウロらの使徒が各地の教会などにあてて教えを説いた書簡などからなっており、2世紀初めには成立した、ユダヤ教の聖書の『旧約聖書』とともにキリスト教の経典となった。
また聖書や教義の研究が教会の学者(教父)たちによって行われ、彼らによって教会の正統な信仰が確立し、特にギリシア哲学との融合がはかられた。また教父たちの中には異教徒、とくに皇帝に対してキリスト教を弁明する書を著すものが現れた。彼らを御教家と呼ぶ。
ローマなどではキリスト教徒は地下墓地(カタコンベ)で集会していたが、そこに聖書をテーマとした多数の壁画を残した。
このようにキリスト教徒は時々迫害を受けながらも伝道を続け、教徒は増え、都市の教会が大きくなっていった。教会は迫害の時に屈伏してしまった教徒も迫害ののちにはまた迎え入れ、帝国や皇帝に対して反抗的な姿勢をとることもなかった。
しかし、3世紀の半ばから帝国が危機に陥る中で宗教の統一を必要とするようになり、ローマ帝国軍人皇帝時代のデキウス帝などが厳しい迫害を命じて、帝国による弾圧が始まった。
帝国再建を果たしたテトラルキア時代のディオクレティアヌス帝も、303年に帝国全域で「大迫害」を命じた。しかしキリスト教徒は、とくに東方では帝国社会にかなり浸透しており、殉教者も続出したが迫害の効果はあがらなかった。そのうち皇帝権の争いが生じて、それに勝利したコンスタンティヌス1世はキリスト教に好意をもち、313年に「ミラノ勅令」を発してキリスト教を公認し、このご東方のリキニウス帝が迫害を再開したが、324年にコンスタンティヌス帝が帝国を統一してキリスト教の地位は確かなものになった。
キリスト教のなかでは神とキリストの関係などについて、すでに1世紀から論争があり、異端として退けられる人々も現れていたが、公認されて一層そのような神学上の対立が深まった。
そのためコンスタンティヌス帝は325年、ニケーアでニケーア公会議を主催し、アタナシウスの主張した、神と神の子キリストが同じ本質をもつという説が正当とされ、他方キリストの神性を否定し、キリストは神によって創造された人間であるとするアリウス派は退けられた。その後も両派の抗争は続いたが、アナタシウス説は神・キリスト・聖霊をひとつのものと信じる「三位一体説」として確立し、アリウス派は異端とされて決着がついた。
この間、「背教者」フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス帝が出て古典文化とギリシア宗教の復興を企ててキリスト教を抑圧しようとしたが成功せず、キリスト教正統派(カトリック)が確立されていき、テオドシウス帝は他の宗教(異教)の礼拝を禁じてキリスト教を国教とした(392)。
教会は皇帝の支援を受け、大都市の教会を中心として組織を大きくし、農村にも信者は増えていった。教会は免税などの特権によって豊かになり、貧民への施しも制度として行われるようになった。司教は教会だけでなく一般社会や政治に対しても指導力をもった。
聖書のラテン語訳がヒエロニムスによって完成し、神学の研究も東西の教会で進められた。コンスタンティヌス帝の側近であったエウセビオスは『教会史』などを著し、その後教父たちは盛んな執筆活動を行なった。とくに古代末期を代表する最大の教父アウブスティヌス(354〜430)は、みずからのキリスト教への改宗の動機をつづった『告白録』を著すとともに、当時強まったキリスト教に対しローマ帝国の衰えの責任を問う異教徒の批判に答え、キリストの神の国が地上のローマ帝国などをはるかにこえる永遠性をもつことを論証する『神の国』を書き残した。彼はギリシア哲学とキリスト教思想を結合させようとした教父たちをうけて、その流れを完成し、のちの中世ヨーロッパの神学の発展に大きな影響を与えた。
キリスト教会の正統と異端との論争はなおも続いた。アリウス派は北方のゲルマン人の間に広まった。アフリカでは大迫害の際に屈伏した司教を批判するドナティズムの運動が農民に支持され、キリスト論をめぐってはその神的性質と人間的性質を完全に分離させるネストリウス派がおこり、この派はエフェソス公会議(431)で異端とされた。
ネストリウス派はササン朝をへて唐代の中国に伝えられ、景教と呼ばれた。また東方ではキリストが神的性質と人間的性質を完全にひとつの本質としてもつと主張する単性説も盛んになり、カルケドン公会議(451)で異端とされたが、それ以後もエジプトのコプト派はエチオピア・シリア・アルメニアの一部で単性説を奉じた。
ヨーロッパ世界の形成と発展
西ヨーロッパ中世世界の変容
教会勢力の衰微
中世後期のヨーロッパでは、ローマ教会の堕落に対する批判が各種の異端運動となって現れた。
ワルド派
12世紀後半、フランスのリヨンの商人ワルド(1140〜1217)は、資材を貧民に施して人々に清貧と悔い改めを説き、聖書に基づく信仰を主張して教会制度を批判した。この教えを信ずる人たちはワルド派と呼ばれ、南フランスや北イタリアに広まったが、教会側の激しい弾圧を受けた。
アルビジョワ派
また、マニ教の影響下に東方でおこったカタリ派は、純潔の保持と断食などの戒律厳守を説いてバルカン半島に定着し、やがて12〜13世紀の西ヨーロッパ各地に広まった。特に南フランスのトゥールーズ・アルビ両地方では、地方貴族の支持をえてさかんとなり、アルビジョワ派とも称された。異端撲滅を掲げたインノケンティウス3世(ローマ教皇)は、アルビジョワ十字軍(1209〜1229)を提唱、王権の伸張を目指すフランス国王もそれに同調して攻撃したため、衰退した。
教皇のバビロン捕囚
13世紀末にでたボニファテゥウス8世(ローマ教皇)(位1294〜1303)は、国家に対する教会の優位と教皇権の絶対性を主張したが、王権の伸張という現実により打ち砕かれた(アナーニ事件 1303)。
ボニファティウス8世とアナーニ事件
ボニファティウス8世(ローマ教皇)は、1300年キリスト教世界に聖年の布告を発し、ローマのサン・ピエトロ教会に詣でるものに全贖宥(罪の許し)を与えることを宣言。さらに1302年には教書「ウナム・サンクタム(唯一の聖なる)」で教皇権の絶対性を主張し、教皇権の健在ぶりを誇示した。また、フランス国内の教会領への課税をめぐって、フィリップ4世(フランス国王)と対立した。だが、今やカノッサ事件の時とは、時代も状況も異なっていた。いち早く三部会を開いて(1302)その支持を取り付けたフィリップにより、1303年教皇はローマ南方のアナーニで捕らえられ、一時監禁されてしまった。いわゆるアナーニ事件である。教皇は即座に関係者を破門したが効果なく、屈辱のうちにまもなく没した。その後、フィリップは新しい教皇に圧力を加えて、1302年の教書の撤回とアナーニ事件関係者の赦免を認めさせた。
その後ボルドー出身のクレメンス5世(ローマ教皇)は政情不安なローマを嫌い、教皇庁を南フランスのアヴィニョンに遷居した。以後7代約70年にわたり、教皇はフランス王の監視下におかれることになった。これを、古代のユダヤ人の苦難になぞらえて、「教皇のバビロン捕囚」(1309〜1377)という。
1378年、教皇庁はグレゴリウス11世(ローマ教皇)によりローマに戻されたが、彼の死後、新教皇にイタリア人のウルバヌス6世(ローマ教皇)が選出されると、フランス人の枢機卿は対立教皇クレメンス7世(対立教皇)をたて、アヴィニョンに再び教皇庁を設置した。フランス・イベリア諸国・ナポリ・スコットランドなどはアヴィニョン派を支持し、イタリア諸国・ドイツ諸侯・イングランドなどはローマ派を支持したため、ここに教会大分裂(大シスマ 1378〜1417)は決定的となり、教皇の権威は失墜した。
アヴィニョン教皇庁の場所
宗教改革
教会の世俗化や腐敗はますます進み、各地で教会の改革を求める運動が起こってきた。14世紀後半、オクスフォード大学の進学教授ジョン・ウィクリフ(1320頃〜1384)は、教皇権を否定するとともに、教会が世俗的な富を追求することを厳しく攻撃し、教会財産の国庫への没収を是認した。そして、イングランドの教会及び国王の教皇からの独立を主張した。また教義面では聖書主義を唱え、聖書の英語訳とその普及に努めた。彼の教えは異端とされたが、ランカスター公の保護下に生き延び、国内ではロラード派と呼ばれる人々に信奉され、国外ではベーメンのフスの運動に大きな影響を与えた。
フス派
ウィクリフの説に共鳴したヤン・フス(1370頃〜1415)は、プラハ大学の神学教授として教会の土地所有や世俗化を厳しく非難、聖書のチェコ語訳に努めるとともに、チェコ語による説教により民衆の心をつかんだ。だが、ローマ教皇の贖宥状販売を批判して破門され、ドイツ皇帝ジギスムント(神聖ローマ皇帝)の提唱したコンスタンツ公会議に召喚されることになった。この会議では、統一教皇の選出により教会大分裂を終結に導いたが、フスを異端として焚刑に処した(1415)ためフス派の怒りをかった。そして、ジギスムント(神聖ローマ皇帝)がベーメン王を兼ねると、フス派を中心とするプラハ市民は反乱に立ち上がった(フス戦争 1419~1436)。
こうしたウィクリフヤフスの思想と行動は、のちの宗教改革の先駆となった。
フス戦争
フス派にはプラハの都市貴族、大学を中心とした穏健なウトラキスト派と、農民・職人・下層騎士などからなる過激なターボル派があったが、当初はカトリック教会や皇帝軍に共同で対処し、度々皇帝軍を打ち破り(1420〜1431)、一時は国外にも進撃する勢いを示した。しかし、カトリック側がバーゼル公会議で妥協的な和平案を出すとしだいに対立するようになり、結局ターボル派はウトラキスト派とカトリック教会連合に敗れ、1436年穏健派と教会の間で和約が成立した。このフス戦争は、ドイツの支配に対するチェコ人の民族運動としての性格をもっていた。