ギベリン Ghibellines (皇帝党)
中世イタリアで、聖職叙任権闘争に続く神聖ローマ皇帝とローマ教皇の対立時代で、神聖ローマ皇帝を支持する勢力をギベリン(皇帝党)と呼ぶ。北イタリアのビスコンティ家、ドイツの封建貴族、大商人など富裕市民層に勢力を張り、ローマ教皇を支持するゲルフ(教皇党)と対立した。
ギベリン
ヨーロッパ世界の形成と発展
西ヨーロッパ中世世界の変容
北と南のイタリア
中世後期のイタリアは、中部のローマ教皇領を挟んで、北と南でそれぞれ異なった歩みを見せることになった。北イタリアでは、ドイツやフランスのような封建制はあまり発展せず、ヴェネツィア・ジェノヴァ・フィレンツェなどが地中海商業で富を蓄積し、独特の都市共和国(コムーネ)( 都市の自治権獲得 )を形成していった。ドイツ皇帝のイタリア遠征が続きローマ教皇と対立が激化すると、諸都市は皇帝党(ギベリン Ghibellines)と教皇党(ゲルフ Guelfs)に分かれて争った。都市の内部でも大商人などの上層市民はギベリンを、新興市民層はゲルフをそれぞれ支持し、激しい戦闘を繰り広げた。
ゲルフとギベリン
教皇党(ゲルフ)と皇帝党(ギベリン)とは、12世紀から13世紀の主に北イタリアにおいて、対立するローマ教皇と神聖ローマ皇帝をそれぞれを支持した都市、貴族達を指すが、14世紀から15世紀には本来の意味から離れ、対立する都市間の争いや都市内部の派閥抗争における両勢力の便宜的な分類として用いられた。
元々は、神聖ローマ帝国の帝位争いにおいてヴェルフ派をヴェルフ、ホーエンシュタウフェン派をウィーベリンと言ったものが、ヴェルフ家が教皇と結んで、帝位についたホーエンシュタウフェン朝と対抗したため、これがイタリアに伝わり教皇党(ゲルフ)と皇帝党(ギベリン)となった。
経緯
11世紀の叙任権闘争において、既に教皇と皇帝の争いは始まっており、ハインリヒ4世(神聖ローマ皇帝)と対立するヴェルフ5世(ヴェルフ2世(バイエルン公))は、教皇党のトスカーナ女伯マティルデ・ディ・カノッサと結婚したため、教皇党はヴェルフ(ゲルフ)と呼ばれはじめた。
ザーリアー朝が断絶するとヴェルフ家のハインリヒ10世(バイエルン公)(尊大公、ヴェルフ5世の甥)は、ホーエンシュタウフェン家のコンラート3世(神聖ローマ皇帝)と帝位を争い、1140年のヴァインスベルクの戦いの「掛け声」からヴェルフ派がヴェルフ、ホーエンシュタウフェン派がウィーベリンと呼ばれるようになった。
ドイツ国内においては、ヴェルフとウィーベリンは文字通り両家を支持する派閥であり、ヴェルフ家のオットー4世(神聖ローマ皇帝)が皇帝になった時には、ヴェルフが皇帝派、ウィーベリンが教皇派となっている。
イタリア
しかし、北イタリアではホーエンシュタウフェン朝が積極的にイタリア政策を進めたため、これを支持する都市がギベリン、これに抵抗して教皇の支持を求めたロンバルディア同盟などの都市がゲルフと呼ばれた。一般的には、貴族は皇帝党が多く、都市市民は教皇党が多かったといわれるが、単に対立勢力が皇帝党になったから教皇党になるといった例も多かった。
ゲルフ対ギベリンの争いは、1250年にフリードリヒ2世が(神聖ローマ皇帝)亡くなり、1268年にホーエンシュタウフェン家の最後の王コッラディーノが教皇の意を受けたシャルル・ダンジューにより処刑されたためゲルフの勝利として一旦終結したが、間もなくシャルルに対抗するものがギベリンと呼ばれるようになり、以降フランス、ナポリ、教皇系をゲルフ、ドイツ、スペイン系がギベリンとなるが、実情は単なる都市間、都市内の派閥争いだった。ハインリヒ7世(神聖ローマ皇帝)やベネディクトゥス12世(ローマ教皇)も、ゲルフ対ギベリンと称して対立することを禁じたが、ルネサンス期を通じて、この呼称はしばしば使用された。
15世紀のイタリア戦争時には、フランス王を支持したのがゲルフ、スペイン王を支持したのがギベリンと呼ばれたが、16世紀に神聖ローマ皇帝兼スペイン王カール5世(神聖ローマ皇帝)がイタリア支配に成功し、これらの呼称は用いられなくなった。
主に皇帝党だった都市
- フォルリ
- モデナ
- ピサ
- シエーナ
主に教皇党だった都市
- ボローニャ
- ブレシア
- ジェノヴァ
- ペルージャ
参考 Wikipedia