インド大反乱 大反乱とインド帝国の成立
インド大反乱 東インド会社のインド人傭兵をシパーヒーと呼び、約28万人が5万人弱のイギリス人将兵に率いられていた。1857年には、彼らが宗教上嫌う獣脂が弾薬包に塗られているという噂をきっかけに、待遇などの不満から反乱をおこし、デリーを占領した。反乱は北インド全域に波及し、広く民衆を巻き込む反英民族闘争へと発展した。©Public Domain

シパーヒーの反乱


シパーヒーの反乱 (インド大反乱, セポイの反乱 A.D.1857〜A.D.1859)

インド最初の民族的大反乱。シパーヒー(東インド会社のインド人傭兵)の反乱を機に北インド全域に波及、反英民族闘争へ発展。2年後イギリス軍に鎮圧され、ムガル朝滅亡、インドは英の直接支配下に置かれた。

シパーヒーの反乱

インド大反乱 大反乱とインド帝国の成立
インド大反乱 東インド会社のインド人傭兵をシパーヒーと呼び、約28万人が5万人弱のイギリス人将兵に率いられていた。1857年には、彼らが宗教上嫌う獣脂が弾薬包に塗られているという噂をきっかけに、待遇などの不満から反乱をおこし、デリーを占領した。反乱は北インド全域に波及し、広く民衆を巻き込む反英民族闘争へと発展した。©Public Domain
  • インド大反乱:シパーヒーの反乱を民族独立運動のさきがけとする呼称。19世紀半ば、中国での太平天国の乱やインド大反乱など西欧支配への抵抗運動が敗北したことは、アジア各地の人々に大きな危機感をいだかせた。
  • シパーヒーの反乱:インド最初の民族的大反乱。デリー北東部のメーラトに駐屯するシパーヒーが反乱をおこし、宗教的対立をこえてムガル皇帝を擁立、イギリスに宣戦した。これに呼応して各地のシパーヒーが蜂起し、イギリスの支配に不満を持つ旧支配層や農民、都市の民衆も加わり、反乱は北インド全域に広がった。しかし、軍事力・組織力にすぐれるイギリスは、体制をたて直して反乱を鎮圧した。1858年、ムガル帝国は滅亡、インドはイギリスの直接支配下に置かれた。
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アジア諸地域の動揺

南アジア・東南アジアの植民地化

大反乱とインド帝国の成立

イギリスの支配に対するインド人の反感はシパーヒー(セポイ)と呼ばれたイギリス東インド会社のインド人傭兵がおこした反乱を機にいっきに爆発した。シパーヒーはこれまで会社のインド侵略の先頭にたたされてきたが、白人の将兵との間の差別は大きく、これが不満の種となっていた。そして1857年、彼らが宗教上嫌う獣脂が弾薬包に塗られているという噂をひとつのきっかけとして、大反乱をおこすにいたった(インド大反乱)。反乱軍はデリーを占領して、すでに名のみの存在となっていた老齢のムガル皇帝を擁立した。反乱のニュースが伝わると、イギリスによって地位や権利を奪われた旧王侯とその部下、旧地主、生活に苦しむ農民・職人・小商人など広い層のインド人が、カーストや宗教の区別なくこれに加わり、反乱は中部・北部インドに波及した。しかし、反乱軍には統一がなく、さらに上層部の妥協などもあり、2年後には鎮圧された。この反乱の結果、ムガル皇帝は廃位され3世紀以上にわたって存続してきたムガル朝は滅亡した(1858)。「セポイの反乱」と呼ばれてきたこの大反乱には、旧支配者による旧体制復帰をめざす運動としての面が強かったが、各階層のインド人が広く参加したこの反英蜂起を民族運動の第一歩とみることもできる。

イギリス領の拡大地図 インド植民地化の進行
イギリス領の拡大地図 ©世界の歴史まっぷ

大反乱に加わった旧王侯

大反乱の指導者のひとりナーナー=サーヒブは、マラーター同盟の宰相(事実上の最高君主)の後継者であったが、養子であるという理由でイギリスからその地位を承認されなかった(失権の原則)。大反乱の勃発に際し、臣下のターンティア=トピーに擁立され戦い、のち敗走中にネパールで死んだらしい。ターンティア=トピーはすぐれた武将で、たくみな戦術を駆使してイギリス軍を苦しめたが、最後には捕らえられ絞首刑に処せられた。インドのジャンヌ=ダルクと呼ばれるラクシュミー=バーイーは、ジャーンシー王国の王妃であったが、夫の死後に直系の世継ぎがいないという理由によって、その王国はイギリス領に併合された。大反乱がおこるとこれに加わって各地を転戦し、グワリオル城陥落のとき戦死した。これら大反乱の主役たちは、今日、民族的英雄の列に加えられている。

大反乱に動揺したイギリスは、いっそう強力な支配体制を確立する必要に迫られた。そして1858年にインド統治改善法を定め、それまでインド統治にあたってきた東インド会社を解散させ、インドをイギリス政府の直接の支配下においた。さらに1877年にヴィクトリア女王がインド皇帝(女帝)を兼ねることを宣言し、ここに正式にインド帝国が成立して、名実ともにインドの植民地化は完成をみた。帝国はイギリスの直轄地と藩王国 Indian State とから構成されていた。イギリスは保守的な旧王侯の国を残すという分断策により、インド人が団結して反抗することを防いだのである。

藩王国:イギリスの統治下に内政権を与えられていた旧王侯(藩王、マハーラージャ)の国。大小550をこえ、全体でインドの面積の45%、人口の24%を占める。
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詳説世界史研究

年表

アジア諸地域の動揺年表

1757プラッシーの戦い(ムガル帝国)
1805ムハンマド=アリー、エジプト総督に就任(オスマン帝国
1816英使節アマースト来航(清朝)
1821ギリシア独立戦争(〜29)(オスマン帝国)
1824第一次ビルマ戦争(〜26)
1828
トルコマンチャーイ条約カージャール朝
1839第二次エジプト=トルコ戦争(〜40)
1840アヘン戦争(〜42)(清朝)
1851太平天国(〜64)(清朝)
1853クリミア戦争(〜56)
1856アロー戦争(〜60)(清朝)
1857インド大反乱(〜58)
1858ムガル帝国滅亡(英の直接統治)
1862洋務運動始まる(清朝)
1869スエズ運河開通
1876
日朝修好条規
ミドハト憲法発布(オスマン帝国)
1877ロシア=トルコ戦争(〜78)(オスマン帝国)
インド帝国成立
1881ウラービーの反乱(〜82)(エジプト)
イリ条約(ロシア・清朝)
1884清仏戦争(〜85)
1887仏領インドシナ連邦成立
1894甲午農民戦争(朝鮮)
日清戦争(〜95)
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