ジョージ1世(イギリス王)( A.D.1660〜A.D.1727)
- グレートブリテン王国ハノーヴァー朝初代国王(在位1714年8月1日 - 1727年6月11日)兼
- アイルランド国王(在位1698年1月23日 – 1727年6月11日)兼
- 神聖ローマ帝国ハプスブルク朝ハノーファー選帝侯(ゲオルク1世)(在位1698年〜1727年)
54歳で即位したドイツ人のジョージ1世は英語が話せなかったこともあり、国王は「君臨すれども統治せず」という原則が確立した。ホイッグ党のロバート・ウォルポール首相のもとで、内閣が議会に責任を負う責任内閣制が成立した。
ジョージ1世(イギリス王)
「国王は君臨すれども統治せず」の始まり
ジョージ1世(イギリス王)の妃ゾフィー・ドロテア・フォン・ツェレは絶世の美女として有名。王は、ゾフィーの貴族との姦淫を疑い、死ぬまで32年間幽閉した。王にも愛人が2名いたが、いずれも美人とはいえなかったという。
責任内閣制の端緒を開く
ハノーヴァー選帝侯エルンスト・アウグストとジェームズ1世(イングランド王)の孫娘との間に生まれ、アン(イギリス女王)の死とともに、ハノーヴァー朝(ウィンザー朝)の初代王として即位する。それ以前、彼にはアン(イギリス女王)との間に縁談が持ち上がったが、アンの方がこれを嫌ったため破談になったという経緯があった。即位したとき、ジョージ1世(イギリス王)はすでに54歳という当時としては高齢の部類。イギリスの政治事情に不案内なうえ、英語もあまり得意ではなかったことから、ドイツから連れてきた側近だけに頼る政治を批判されてからは、閣議にもほとんど出席せず、有力な閣僚に内閣を任せきりにした。
ヨーロッパ主権国家体制の展開
イギリス立憲政治の発達
王政復古から名誉革命へ
1714年にアン(イギリス女王)(位1702〜1714)が死去し、ステュアート朝が絶えると、ドイツのハノーヴァー選帝侯がジョージ1世(イギリス王)(位1714〜1727)として迎えられ、ハノーヴァー朝(1714〜1917)が成立した(この王朝は、のちにイギリス風にウィンザー朝と名称を変え、現在にいたっている)。40歳をすぎてイギリスにきた王は英語が話せなかったこともあり、国王は「君臨すれども統治せず」という原則が確立した。ホイッグ党のロバート・ウォルポール首相(任1721〜1742)のもとで、内閣が議会に責任を負う責任内閣制が成立したのである。
子女
妻ゾフィー・ドロテア・フォン・ツェレとの間で2人の子女をもうけている。
- ジョージ2世(イギリス王)(1683年11月9日 – 1760年10月25日) – 1705年、キャロライン・オブ・アーンズバックと結婚。1727年、グレートブリテン王に即位。
- ゾフィー・ドロテア・フォン・ハノーファー(1687年3月26日 – 1757年6月28日) – 1706年、ブランデンブルク辺境伯フリードリヒ・ヴィルヘルム(後にフリードリヒ・ヴィルヘルム1世(プロイセン王))と結婚。
参考 Wikiwand