ジョージ2世(イギリス王)
ジョージ2世(イギリス王)(ゴドフリー・ネラー画/ロイヤル・コレクション)©Public Domain

ジョージ2世(イギリス王)


ジョージ2世(イギリス王)( A.D.1683〜A.D.1760)

  • グレートブリテン王国ハノーヴァー朝第2代国王(在位1727年6月22日 – 1760年10月25日)兼
  • アイルランド国王兼
  • 神聖ローマ帝国バイエルン朝、ハプスブルク=ロートリンゲン朝ハノーファー選帝侯(ゲオルク2世)(在位1727〜1760)。

ジョージ1世(イギリス王)の子。オーストリア継承戦争中の1743年にデッティンゲンの戦いに参加、戦闘に参加したイギリス国王としては最後となった。

ジョージ2世(イギリス王)

ジョージ2世(イギリス王)は北ドイツで生まれ、外国で生まれたイギリスの君主としては最後となった。1701年王位継承法と1707年合同法(1707)でイギリス王位継承権がプロテスタントに限定されたため、継承順位が50位以下だった祖母のゾフィー・フォン・デア・プファルツは一気に継承順位2位まで上がった。1714年にゾフィーとアン(イギリス女王)が相次いで死去すると、父のハノーファー選帝侯ゲオルク1世ルートヴィヒはイギリス王位を継承した(ジョージ1世(イギリス王))。父の治世初期は反対派の政治家に味方し、1720年に反対派が与党と和解するまで続いた。

1727年に即位した後、イギリスの内政はグレートブリテン議会が司り、ジョージ2世が干渉することは少なかった。選帝侯としてはハノーファーで12回の夏を過ごし、そこでは政府の施策を直接指示した。長男のフレデリック・ルイス(プリンス・オブ・ウェールズ)とは仲が悪く、フレデリック・ルイスは議会で野党を支持した。
オーストリア継承戦争中の1743年にデッティンゲンの戦いに参加、戦闘に参加したイギリス国王としては最後となった(ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルはこの勝利を記念して、デッティンゲン・テ・デウムを作曲している。)。1745年、カトリック教徒であるジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート(老僭王)の王位継承権を支持したジャコバイトはジェームズの子チャールズ・エドワード・ステュアート(若僭王)に率いられて最後のジャコバイト蜂起を起こし、ジョージ2世を廃位しようとしたが失敗した。フレデリック・ルイスが1751年に早世したため、ジョージ2世が1760年に死去すると、孫のジョージ3世(イギリス王)が王位を継承した。

ジョージ2世(イギリス王)はハノーファー選帝侯を兼ねていたので、ハノーファーに滞在してイギリスを留守にする時は、キャロライン・オブ・アーンズバックが没する1737年までたびたび摂政を務めた。また北アメリカ大陸に13番目の植民地ジョージアが建設されたのもこの時であった。ジョージアの名はジョージ2世にちなんで名づけられたものである。ハノーファーにもゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲンが創設された。

参考 Wikipedia

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