タラス河畔の戦い
751年、中央アジアのタラス地方(現キルギス)で、高仙芝率いる唐軍とアッバース朝との戦い。アッバース朝が唐朝を大破し、イスラーム勢力は、ソグド人の本拠地たるアム川・シル川中間地帯を含め、パミール以西のオアシス地帯の西半を完全に勢力圏におさめることとなった。ユーラシアの東西を結ぶ通商ネットワークの主役は、ソグド人からムスリム商人へと、しだいに移り変わっていった。中国で発明された製紙法は、捕虜となった唐人の紙漉き職人によって西方に伝えられ、757年にはサマルカンドに紙工場が建てられた。
タラス河畔の戦い
戦争データ
年月日:751年5月〜9月 | |
場所:現キルギスのタラス河畔 | |
結果:アッバース朝の勝利 | |
交戦勢力 | |
アッバース朝 | 唐(王朝) |
指導者 | |
ズィヤード・イブン=サーリフ | 高仙芝 李嗣業 |
戦力 | |
20万人 | 3万人(イスラーム側の文献では10万人) |
損害 | |
不明 | 残兵数千人 |
経過
戦闘まで
750年、安西節度使として西域(東トルキスタン)に駐屯していた唐(王朝)将軍高仙芝が西のソグディアナ(西トルキスタン)に圧力をかけた。そのため、シャーシュ(石国、現在のタシュケント)の王子は、シル川以西を支配するイスラム勢力に支援を要請。これに応じて747年にウマイヤ朝勢力をメルヴから追ってアッバース朝のホラーサーン総督となっていたアブー・ムスリムは、部下のズィヤード・イブン=サーリフを派遣。一方、漢人・土着からなる3万(あるいは10万人)の唐軍は、高仙芝に率いられタラス城に入る。
戦闘
751年7月、ズィヤードの率いるアッバース朝軍と高仙芝率いる唐軍は、天山山脈西北麓のタラス河畔で衝突した。
戦いの最中、唐軍に加わっていた天山北麓に遊牧する遊牧民カルルクがアッバース朝軍に寝返ったため、唐軍は壊滅し数千人を残すのみとなった。高仙芝自身は、部下の李嗣業がフェルガナの軍中に血路を開くことで撤退には成功したものの、多くの兵士が捕虜となった。唐側の被害は甚大で、イブン・アスィールの『完史』によると、アッバース朝軍は「唐軍5万人を殺し、2万人を捕らえた」という。
参考 Wikipedia
内陸アジア世界の変遷
トルコ化とイスラーム化の進展
イスラーム勢力の西進
751年タラス河畔の戦いでアッバース朝が唐朝を大破し、イスラーム勢力は、ソグド人の本拠地たるアム川・シル川中間地帯を含め、パミール以西のオアシス地帯の西半を完全に勢力圏におさめることとなった。これによりユーラシアの東西を結ぶ通商ネットワークの主役は、ソグド人からムスリム商人へと、しだいに移り変わっていった。
東アジア世界の形成と発展
東アジア文化圏の形成
隋唐の社会
唐朝では、蕃将と呼ばれる非漢族出身の将軍(タラス河畔の戦いで敗れた高句麗出身の高仙芝やソグド系の安禄山はその一例)が活躍し、インドからは密教の高僧が相ついで渡来したほか、日本や新羅など東アジアの諸国からも多数の留学生や商人が来訪するなど、その国際性は中国歴代王朝のなかでも極立っている。
玄宗の政治と唐の衰退
751年、タラス河畔の戦いで高仙芝率いる唐軍がアッバース朝の軍隊に大敗した事件は、唐(王朝)の対外的な退勢を明らかに示すものであった。
イスラーム世界の形成と発展
イスラーム世界の発展
ヨーロッパのイスラーム文明
イスラーム教徒は、751年タラス河畔の戦いで唐(王朝)軍隊を破り、その捕虜から麻布を原料とする製紙法を学んだ。かれらはサマルカンドやバグダード、カイロなどに製紙工場を建設し、やがてその技術はイベリア半島とシチリア島をへて、12世紀ころヨーロッパに伝えられた。
同じく中国起源の羅針盤と火薬も、イスラーム世界を経由してヨーロッパに伝えられた。
インドから伝えられた砂糖や木綿は、10世紀ころまでに西アジア社会に普及し、十字軍の将兵によってヨーロッパにもたらされた。
諸地域世界の交流
陸と海のネットワーク
オアシスの道(オアシス・ルート)
オレンジ線がオアシスの道
オアシスの道は、物資や利益をもたらしただけでなく、東西の文化交流においても重要な意味をもった。シルク・ロードの呼び名にもなったように、中国産の生糸や絹は重要な商品であったが、養蚕の技術も次第に西方に伝播していった。製紙法も中国で発明されたが、751年のタラス河畔の戦いにおいて、捕虜となった唐人の紙漉き職人によって西方に伝えられ、757年にはサマルカンドに紙工場が建てられた。また西方の文物もこの道を通って東方に伝えられた。