ツタンカーメン (Tutankhamun) B.C.1342〜B.C.1324 ?
エジプト新王国 第18王朝ファラオ。虚弱、年少のため、政治的権威が弱まる。伯父・アメンホテプ4世が改革事業の途中で死去したため、改革を元に戻そうとした神官らに傀儡として10歳前にファラオに擁立された。
ツタンカーメン
神秘のベールに包まれた少年王
古代エジプトでは早くから太陽神ラーが信仰されていた。やがてこれとテーベの守護神アメンが習合してアメン・ラーと呼ばれ、ファラオ(王)はその子とされるようになった。アメン神官団が強くなりすぎたことから、父イクナートンはそれに対抗するため、別の太陽神アトンをもちあげ、ついにはこれを唯一の神とする宗教改革を断行する。
しかし大衆の猛反発を買ったことから、ツタンカーメンの代になってすべて旧に復した。これにともない、ツタンカーメンの名もトゥトアンクアトン(アトン神の生きる似姿)からトゥトアンクアメン(アメン神の生きる似姿。ツタンカーメン)と改められた。
ツタンカーメンが即位したのは9歳の頃。まだ政務がとれるはずもないので、国政の実権は宰相アイと将軍ホレムヘブが握っていたとみられる。ツタンカーメンが世継ぎを残さずに死ぬと、王位継承権をもつ未亡人のアンケセナーメンと結婚することでアイが王位に就き、アイが死ぬと、イクナートンの妃ネフェルティティの妹ムトネジメトと結婚することで、ホレムヘブが王位に就いた。
ツタンカーメンは若くして亡くなった。ゆえにその死因については従来様々な説が唱えられてきた。一番得をしたのがアイであることから、アイによる暗殺説も根強かったが、最新の研究によれば、彼は元来病弱でさまざまな病気を抱えており、直接の死因はマラリアだという。
長い眠りから覚める
長らく無名の存在だったツタンカーメンを一躍有名にしたのは、イギリスの考古学者ハワード・カーターだった。カーターによりツタンカーメンの墓が未盗掘の状態で発見されたのは1922年で、場所は上エジプトの古代都市テーベ(ルクソール)のナイル川西岸にある新王国時代の王墓地「王家の谷」である。
王墓から発見された黄金の玉座。背もたれには妻アンケセナーメンとツタンカーメンの仲睦まじい様子が表されている。王と王に香油を塗る王妃とは一足のサンダルを分け合い、片方ずつ履いている。
ツタンカーメンの儀式用短剣と鞘。来世で王を守るという意味合いが込められている。鞘には犬とライオンとヒョウが野牛やアイベックスを襲う場面が描かれ、「良き神、力の主、ネプケプウラー、生命を与えられし者」という銘文が刻まれている。
ファラオの権威をもたなかった虚弱な少年王
古代エジプト第18王朝のファラオ。黄金のマスクをはじめ、無傷の王墓からまばゆいばかりの埋葬品が出土した。1922年、イギリスの考古学者ハワード・カーターの「王家の谷」での発掘による。
ツタンカーメンは虚弱な王子であったが、10歳前後で王位に就いた。伯父アメンホテプ4世が、宗教ははじめとする改革事業の途中で死去したため、改革をもとに戻そうとした神官らに、ツタンカーメンが傀儡として擁立されたのである。在位期間は前1333〜前1323の10年間。当時はエジプト領のシリアとパレスティナがヒッタイトに侵攻され、撃退に手を焼いた時代。若い王は、将軍ハルエムヘブに支えられて統治にあたった。
ミイラのDNA鑑定とCTから、王は骨を患っており、足を骨折したうえ、マラリアにかかり、若くして亡くなったと見られている。
同時代の人物
屈葬の風習
縄文時代の日本では、死体の腕と脚を折って、しゃがみこんだ姿勢で埋葬した。ゆえに座葬ともいう。同様の風習はメラネシアの一部と、アフリカ全土でごく一般的に見られる。