トロツキー Trotskii( A.D.1879〜A.D.1940)
ソ連共産党の指導者の1人として対独講和や赤軍の創設に関わる。世界革命論を主張しスターリンと対立、レーニン死後の権力闘争に敗れ、1929年に国外追放となり、亡命先のメキシコで暗殺された。
トロツキー
- ロシアの革命家でソ連共産党の指導者。ロシア二月革命後にメンシェヴィキからボリシェヴィキに転じた。ペトログラード=ソヴィエト議長としてロシア十月革命を指導し、外務人民委員を務め、対ドイツ講和や赤軍創設にも活躍した。
- ロシアの革命家、ソ連共産党の指導者。レーニンの後継者と目されていたが、党内でのスターリンとの争いに敗れ、1929年に国外に追放された。国外でもスターリン批判を続けたが、亡命先のメキシコで暗殺された。
- ソ連共産党の指導者の1人として対独講和や赤軍の創設に関わる。世界革命論を主張しスターリンと対立、レーニン死後の権力闘争に敗れ、1929年に国外追放となった。
レーニンとともにロシア十月革命を指導
ロシアの革命家。ロシア二月革命を機にメンシェヴィキからボリシェヴィキに移り、レーニンを助けてロシア十月革命を遂行した。ソヴィエト政府の初代外務人民委員(外相)としてドイツと講和。レーニンの後継者と目されたがスターリンに敗れ失脚。亡命先のメキシコで暗殺された。
二つの世界大戦
第一次世界大戦とロシア革命
ロシア革命
1917年4月、指導者のレーニン Lenin (1870〜1924)が亡命先のスイスから帰国した。レーニンは革命的祖国防衛主義を批判して戦争の即時中止を求め、労働者と農民からなるソヴィエトが権力を握ることを訴えた(四月テーゼ)。
農村では土地を求める農民革命が、ウクライナやフィンランドでは民族革命が並行して進行した。首都の兵士・労働者の間に「いっさいの権力をソヴィエトへ」というスローガンを掲げたボリシェヴィキの影響が広まると、臨時政府は社会革命党のケレンスキー Kerenskii (1881〜1970)を首班とし、自由主義者と社会主義者との連立政府を成立させて態勢を立て直そうとした。しかし、9月にコルニーロフ将軍 Kornilov (1870〜1918)の反政府反乱がボリシェヴィキの協力によって鎮圧されると、革命派の力はいっそう強まった。11月7日(露暦 10月25日)、レーニン・トロツキー Trotskii (1879〜1940)らは武装蜂起して政府を倒し、政権を握った。ボリシェヴィキと社会革命党左派が多数を占めることになった全ロシア=ソヴィエト会議は、8日から9日にかけてレーニンが書いた「労働者・兵士・農民諸君へ」「平和に関する布告」「土地に関する布告」を採択した。「平和に関する布告」は無併合・無賞金・民族自決の原則による即時講和を全交戦国の人民と政府に呼びかけ、秘密条約の公表を約束した。「土地に関する布告」は地主の土地を無償で没収することなどを定めた。こうしてソヴィエト政権は、二月革命(三月革命)以来国民が求めてきた平和と土地の問題に解決の緒を示したのである。これが十月革命(十一月革命)である。
- ロシア革命 | 世界の歴史まっぷ
合衆国の参戦と戦争の終結
1918年1月、ウィルソン大統領は、レーニンのおこなった和平提案や秘密条約の公表に対抗し、革命の広がりを阻止するために、秘密外交の廃止、海洋の自由、民族自決などからなる十四カ条の平和原則を発表した。3月、ドイツ軍の攻勢をうけたソヴィエト政府はドイツなどとの単独講和にふみきり、ブレスト=リトフスク条約 Brest-Litovsk ❷ を締結して戦線から離脱した。
❷ ブレスト=リトフスクはベラルーシの都市で、ロシア側の全権はトロツキーであった。この条約で、フィンランドとウクライナは独立し、ロシアが放棄したポーランド・バルト地域は事実上ドイツの支配下に入った。大戦後、ドイツと連合国 との休戦協定により破棄された。
ソヴィエト政権と戦時共産主義
1918年1月、憲法制定議会が召集されたが、反ソヴィエトの社会革命党が第一党を占めた。そのため、ボリシェヴィキは憲法制定議会を封鎖してソヴィエトを基盤とする体制をきずき、社会主義の確立を目標とすることを明らかにした。ドイツ側とは単独講和にふみきりブレスト=リトフスク条約を結んだ( 合衆国の参戦と戦争の終結)。ボリシェヴィキは共産党と改称し、首都は内陸のモスクワに移された。一方、ボリシェヴィキと共闘してきた社会革命党左派は侵略的な内容の講話条約の締結、農民からの食料徴発やビリシェヴィキの中央集権国家建設に反対して武装蜂起した。共産党はこの反乱を鎮圧して一党独裁体制をきずいた。レーニンは、農業国家ロシアでの革命は先進工業国での革命への第一歩と考えていた。1919年3月、モスクワで共産主義者の国際組織であるコミンテルン(共産主義インターナショナル、第3インターナショナル)が創設され、世界革命の推進をめざした。
革命政権を警戒する連合国 はロシア軍脱落後の東部戦線を再建するという名目で軍隊を派遣し、旧帝政派軍人など反革命派の反乱を援助しつつ対ソ干渉戦争に乗りだした。1918年5月、シベリアに抑留されていたチェコ軍団の救援を名目にイギリス・フランス・日本・アメリカなどの軍隊がウクライナ・カフカス・シベリア方面からロシア領内に侵入した。これに対してソヴィエト政府はトロツキーのもとで赤軍を組織して反撃し、チェカ Cheka (非常委員会)を設置して反革命運動を取り締まった。戦争を戦い抜くために戦時共産主義と呼ばれる厳しい統制経済政策がとられた。農民からは強制的に穀物を挑発し、工業の国有化がよりいっそう進められた。レーニンは総戦力で経験した統制経済によって社会主義が実現されると考えたのである。