ナポレオン法典 (フランス民法典 1804)
ブリュメールのクーデタで総裁政府を倒し、統領政府を樹立したナポレオンは、第一統領となり、1804年3月、フランス民法典を編纂、公布した。私有財産の絶対性、家族の尊重、国家の世俗性・法のまえの平等などの原則を確認しているこの法典は、伝統と革命の成果を調和させ、法的に安定させたものである。この民法典は、近代化するヨーロッパ諸国の民法典のひとつの模範となった。
ナポレオン法典
1804年3月21日の「フランス人の民法典」。ナポレオン1世は1807年の法律により、これにみずからの名を冠し Code Napoléon とした。またナポレオン1世治下に制定された5法典(民法、商法、民事訴訟法、刑法、治罪法)を総称して codesnapoléoniens と呼ぶこともある。民法典は近代資本主義の要請を満たす近代市民法典の先駆として、ヨーロッパをはじめ世界の国々の法典の模範となった。その特色は個人主義、自由主義の原理に貫かれている点にあり、所有権の絶対(544条)、契約の自由(1134条)、過失責任(1382条)の諸原理にそれがよく表われている。全文2281条から成り、人、物、債権債務という『法学提要』式の編別をとっている。文体、規範内容が簡潔、明白で市民生活に親しみやすく、多くの改正が加えられたとはいえ、フランスの現行民法典として存続している。
参考 ブリタニカ国際大百科事典
欧米における近代社会の成長
フランス革命とナポレオン
ブリュメールのクーデタとナポレオン
1799年11月9日、革命暦ブリュメール18日、ナポレオンは軍を指揮してクーデタを実行、総裁政府を倒し、臨時(執政)統領政府 Consular を樹立した(ブリュメールのクーデタ)。新しい憲法がつくられ、国民投票にかけられ、圧倒的多数の賛成をえた。こうしてクーデタは承認された。4院制の議会、3人の統領(執政)からなる政府が組織され、ナポレオンは任期10年の第一統領となり独裁的権力を握った。
ナポレオンの施策のなかでもっとも大きな意義をもったものが、「ナポレオン法典」の名でよばれるフランス民法典の編纂であった。私有財産の絶対性、家族の尊重、国家の世俗性・法のまえの平等などの原則を確認しているこの法典は、伝統と革命の成果を調和させ、法的に安定させたものである。この民法典は、近代化するヨーロッパ諸国の民法典のひとつの模範となった。
ナポレオン法典(1804)
- 213. 夫は妻を保設する義務を負い、妻は夫に服従する義務を負う。
- 371. 子は年齢のいかんにかかわらず、その父母に対して尊敬の義務を負う。
- 544. 所有権は、法律または規定によって禁止された行使によらないかぎり、物をもっとも絶対的に使用し、かつ処分しうる権利である。
- 545. なんぴとも、公益上の理由により、かつ正当にして事前の補償を受けないかぎり、その所有権の譲渡を強制されることはありえない。
- 1382. 何らかの行為を行い、他人に対して損害を与えた者は、損害が、その者の過失によって生じた者であるならば、これを賠償する義務を負う。
彼はモンターニュ派に共鳴し、トゥーロン港奪回に成功して旅団長となった。ロベスピエールが逮捕された時、一時拘束されたがすぐ釈放され、その後イタリア遠征などを成功させて名声を高めた。