ローマ・カトリック教会の成長 ヌルシアのベネディクトゥス
ヌルシアのベネディクトゥス (ジョヴァンニ・ベリーニ画/サンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ聖堂) @Wikipedia

ヌルシアのベネディクトゥス


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ヌルシアのベネディクトゥス (480年〜547年)
中世のキリスト教の修道院長で、西方教会における修道制度の創設者と呼ばれ、「ベネディクトゥスの戒律」は西ヨーロッパに広く普及し、「西欧修道士の父」と称された。
カトリック教会・聖公会・ルーテル教会および正教会で聖人。ベネディクトやベンディクトとも表記され、イタリア語ではベネデット、正教会ではノルシヤの克肖者聖ベネディクトと称される。
529年ころイタリアのローマとナポリの間にあるモンテ・カッシーノに修道院を設け、540年ころベネディクトゥスの戒律)を定めて、共同で修道生活を行った。彼の戒律に従った修道会の一つをベネディクト会と呼ぶ。

ヌルシアのベネディクトゥス

概要

西方教会修道院の規範をつくる

貴族の子に生まれローマで学んだが、堕落とも感じられる聖職者の環境に失望し、17歳で山中の洞穴にこもり修行をした。
「禁欲、清貧、服従」の厳格な戒律のもと、イタリア中部のカシノ山にベネディクト派修道院を開設した。ここでのモットーは「祈り、かつ働け」で、ベネディクトゥスは自給自足生活と社会的活動を奨励した。この修道会は西方教会の修道院の規範として引き継がれていった。(ビジュアル百科 世界史1200人 1冊でまるわかり!

生涯

ベネディクトゥスは、480年頃、スポレートに近い小さな町ヌルシア(現在のウンブリア州ノルチャ)の古代ローマ貴族の家系に生まれた。
伝承によれば、双子の妹にスコラスティカ(聖スコラスティカ)がいた。少年時代は両親とともにローマに住み、学問を習得した。ローマでは、テオドリック(東ゴート王)が奨励する古典教育を学んだ。これは行政官として必要な教養を身につけるためであったが、キリスト教の福音の教えに共鳴したベネディクトゥスは神に自らの生涯を捧げることを決意し、早い時期に学校を退学した。

ベネディクトゥスは隠修修道を行ったわけではなかったが、ローマ郊外の都会の喧騒を離れた場所で新たな生活を始めた。しばらく後、ベネディクトゥスはローマを完全に離れる必要を感じ、田舎で自らの労働によって生活しつつ修道生活を営むことを考えるに至った。ベネディクト会の標語 “ora et labora” 「祈り、かつ働け」 は、この精神を表現したものである。

修道士ロマヌスの勧めで数年間洞窟での隠修生活をした後、ベネディクトゥスは山中の町スビヤコ(ラツィオ州)に修道院を設立した。彼のもとに、彼の評判を聞いて次々と共鳴者が集まり、スビヤコには12の修道院が増設されるに至った。しかし、同時に反感をもつ者も増えていった。12の修道院のそれぞれに、ベネディクトゥスは12人の修道士と1人の監督者を住まわせ、自身は別の修道院にごくわずかな弟子たちとともに住んだ。
ベネディクトゥスは依然としてスビヤコ全体の修道院長であり、修道士たちの信仰生活の父親役を務めたのである。ベネディクトゥスは、彼のことをこころよく思わない修道士によってあやうく毒殺されそうになり、スビヤコの町をいったん離れた。ローマ在住の貴族たちは、彼の修道院に子弟をあずけるようになり、そのなかから聖マウリスや聖ブラキドゥスなども現れた。

ベネディクトゥスに弟子が増えると、地元の聖職者たちからの敵意はいっそう募り、彼は南へ約100キロメートル離れた町への移動を余儀なくされ、529年頃、モンテ・カッシーノに移り、修道院を設立、モンテ・カッシーノ修道院設立の後は、ベネディクトゥスの生涯はその理想とする修道生活の実現のために捧げられた。

540年頃、ベネディクトゥスは会則を定めた。厳格派と穏健派の中道をつらぬき、労働と精神活動について定めたこの会則は、西ヨーロッパにおけるほぼすべての修道会へ広がっていき、以後、長い間、中世ヨーロッパの修道制度の基礎として考えられてきた。
ベネディクトゥスは547年頃にモンテ・カッシーノで死去し、妹の聖スコラスティカとともに埋葬された。

Wikipediaより

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