ネーデルラント連邦共和国
オランダ東インド貿易船 (1600年-Hendrik Cornelisz. Vroom画/アムステルダム国立美術館蔵) ©Public domain

ネーデルラント連邦共和国


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ネーデルラント連邦共和国 (Republic of the United Netherlands) A.D.1580〜A.D.1795
16世紀から18世紀にかけて現在のオランダおよびベルギー北部(フランデレン地域)に存在した国家。カルヴァン派が勢力を得ていたが、スペイン領となり、フェリペ2世の異端審問に抗議し、乞食党を結成し恐怖政治に対抗、ウィレム1世(オラニエ公)を指導者として独立運動を展開した。1579年北部7州でユトレヒト同盟を結成し1581年独立を宣言した。

ネーデルラント連邦共和国

ヨーロッパ主権国家体制の展開

ヨーロッパ主権国家体制の形成

覇権国家オランダ

スペイン領となったネーネルランドでは、16世紀初めからアントウェルペン(アントワープ)市が、ヨーロッパの中心市場として急激に勃興した。周辺では毛織物工業も繁栄していた。宗教的にはカルヴァン派が勢力をえていたが、フェリペ2世(スペイン王)はこの地にもカトリックの信仰を強制し、異端審問を行なった。これに抗議した農村の中小貴族は、「乞食党こじきとう(ゴイセン)」とあだ名される集団を結成した(1566)。これに対してフェリペ2世は、アルバ公を派遣して恐怖政治(ベルギーやオランダでは、「スペイン人の狂暴きょうぼう」という)を展開した。商工業の中心であったフランドル・ブラバント両州からは、1万人以上の商工業者が北部ネーデルラントやヨーロッパ各地に亡命した。

ネーデルラントに残った人々は1568年、信望の厚いウィレム1世(オラニエ公)(沈黙公 1533〜1584)を指導者として、独立運動を展開した。「乞食党」を中心に抵抗を続けた各州は、1576年「ガンの和平」でいったんはスペイン軍の撤退を約束させることに成功した。しかしその後も戦争は続き、スペイン軍に占領された南部の10州は途中で脱落して、親スペインのアラス同盟を結成した。このため、残った北部7州はユトレヒト同盟を結成(1579)、1581年にいたってネーデルラント連邦共和国オランダ)の独立を宣言した。この間、かねてスペインと対立していたイギリスは、独立派に支援した。1609年には独立派とスペインの休戦が成立、三十年戦争後のウェストファリア条約によって国際的にも独立が承認された。
覇権国家オランダ オランダの独立地図
オランダの独立地図 ©世界の歴史まっぷ

独立戦争(八十年戦争)の過程で南部、特にアントウェルペンは、スペイン軍による封鎖と経済活動の中心となっていた市民の亡命によって経済活動が壊滅したが、他方、独立後のオランダは南部から亡命したカルヴァン派の商工業者などの活躍で、アムステルダムを中心に驚異的な経済発展を遂げた。1602年には連合東インド会社オランダ東インド会社)を設立して、香料産地の東南アジアに進出し、アメリカにもニューネーデルラント(ニューネザーランド)などの植民地を建設した。また、奴隷貿易にも加わるなど、世界全体にその商業網を張りめぐらせた。ライデン周辺の毛織物工業やホラント州の造船業、ニシンを中心とする北海の漁業、デルフトの陶器業やマース河畔の醸造業などもさかんで、アムステルダムは世界商業の覇権を握った。特に重要であったのは、西ヨーロッパに穀物や造船資材を供給し、西ヨーロッパ諸国の生命線ともなっていたバルト海地方との貿易で他の諸国を圧倒したことである。

乞食党:ネーデルラントの独立にあたっては、土着の中小貴族を核とした「乞食党」の活躍がめだった。特に迷路のようにはりめぐらされた運河などの水路を利用してゲリラ戦を展開した「海乞食」が有名。アールクマールの戦いでは、彼らは、最後の手段として、堤防を決壊させ、町を水浸しにしてスペイン軍を追放した。
なお、わが国では、この集団をドイツ語読みにして「ゴイセン」と呼ぶ習慣がある。
オランダの繁栄

南部ネーデルラントは、当時、経済の最先進地域であったから、この土地からの亡命者は、北部(のちのオランダ)のみならず、ヨーロッパ各地に生産や経済や最新の技術と資本を普及させることになった。例えば、イギリスの新毛織物業や時計製造なども、彼らによって広められた。同様のケースは、のちにフランスでナントの王令が廃止され、ユグノーが大量に亡命した時にも起こった。イギリスの絹織物工業などは、その結果成立した。

さらに、もうひとつオランダの繁栄の基盤となったのは、金融面での支配圏を確立したことである。1609年に設立されたアムステルダム銀行は、世界経済の核としてのアムステルダムの活動に重要な役割を果たした。こうしてアムステルダムは、世界の商品市場であるばかりか、金融のネットワークの中心ともなったのである。しかし他方では、この時代としてはめずらしく君主をおかず、共和国の形態をとったオランダは、政治的には内部の対立が十分に解消されず、統一のとれた政策を展開することが困難な傾向にあった。

アムステルダムの東インド会社の造船所
アムステルダムの東インド会社の造船所 ©Public Domain

これは会社の所有する造船所のなかで最大のものであり、3つのドック、いかり鋳造所、大砲製造所があった。

中央の国家権力に対して各州の力が強く、特にアムステルダムを含むホラント州が圧倒的な力を持っていたからである。またそのアムステルダムの中でも、「レヘント」と呼ばれた商人貴族が優勢で、政治を動かしていた。連邦議会は存在したが、実権はアムステルダム商人が握っていたのである。

世界経済のヘゲモニー(覇権)を握った17世紀のオランダは、経済的繁栄を謳歌する。特にアムステルダムは、多数の運河と大商人の邸宅に囲まれ、ヨーロッパ有数の人口を抱える大都会となった。この時代のオランダ社会は、賃金の高い、救貧など社会福祉の充実した先進社会となり、文化の花が開いた。

とくに、圧倒的な経済競争力を背景に自由主義的な政策を採用したため、オランダには商人ばかりか本国でうけいれられない芸術家や知識人・亡命者などが、ヨーロッパ各地から集まった。海洋の自由を説いたフーゴー・グロティウス(1583〜1645)や、哲学者のバールーフ・スピノザやフランス人ルネ・デカルト、画家レンブラント・ファン・レインなどが活躍した。特に、グロティウスの『海洋自由論』は、重商主義の保護政策とは正反対の方向をとっており、いわば世界頂点にたち、ヘゲモニーを握った国にとって有利な主張でもあった。19世紀のイギリスや、20世紀中頃のアメリカが、自由主義を旗印にしたのも、同様の理由からである。

オランダ都市の繁栄

アムステルダムやバーグ・デルフトなど、オランダの都市は、当時のヨーロッパの最先端都市として、観光客も多かったが、アムステルダムでは、懲役刑のための男女別の刑務所も、名所のひとつであった。このころのヨーロッパ各国では、イギリスのベドラム病院のように、精神病院も料金をとって患者を見世物とするようなことがあった。

詳説世界史研究

八十年戦争

1568年から1648年にかけてネーデルラント諸州はスペインに対して反乱を起こした戦争。
これをきっかけに後のオランダが誕生したためオランダ独立戦争とも呼ばれる。この反乱の結果、ネーデルラント17州の北部7州が ネーデルラント共和国として独立した。
北部7州は1581年にスペイン国王フェリペ2世の統治権を否認し、1648年、ヴェストファーレン条約によって独立を承認された。
1602年、連合東インド会社(オランダ東インド会社)を設立し、アジアに進出。

フランス革命

1795年、フランス革命軍の侵攻によって崩壊。

世界遺産

アムステルダム中心部: ジンフェルグラハト内部の17世紀の環状運河地区

ジンフェルグラハト内部の17世紀の環状運河地区
ヘーレン運河「黄金の湾曲(Gouden Bocht)」(ヘリット・ベルクヘイデ画/アムステルダム国立美術館蔵) ©Public Domain
アムステルダムの中心部にある環状運河地区は、新しい港湾都市プロジェクトとして16世紀末から17世紀初頭にかけて運河網が整備された。運河はアムステルダム旧都市街から一番外側の運河「ジンフェルグラハト」まで扇状に広がっており、運河間の泥沢地から排水して干拓した土地に市街地を広げていった。運河沿いには切り妻屋根をもつ均質的な建物が立ち並び、港から入った物資は運河を通って街の隅々にまで運ばれた。アムステルダムの急速な拡大は、大規模な都市計画の見本として、19世紀まで世界の都市計画に影響を与えた。

ジンフェルグラハト内部の17世紀の環状運河地区- 世界の歴史まっぷ

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