ハプスブルク家 Habsburg (10世紀〜1806)
15〜19世紀、神聖ローマ皇帝をほぼ継承したオーストリア王家。10世紀スイスにおこり、1273年同家初の神聖ローマ皇帝ルドルフ1世を出した後オーストリアを所領に加え、1438年アルブレヒト5世の神聖ローマ皇帝就任後、1806年帝国消滅まで皇帝位をほぼ独占した。
ハプスブルク家
- オーストリアの名門王家。大空位後のルドルフ1世(神聖ローマ皇帝)の即位(在位1273〜91)に始まり、1438年からはその滅亡まで神聖ローマ皇帝位をほぼ世襲した。
- 15〜19世紀、神聖ローマ皇帝をほぼ継承したオーストリア王家。10世紀スイスにおこり、1273年同家初の神聖ローマ皇帝ルドルフ1世(神聖ローマ皇帝)を出した後オーストリアを所領に加え、1438年アルブレヒト5世の神聖ローマ皇帝就任(アルブレヒト2世(神聖ローマ皇帝))後、1806年帝国消滅まで皇帝位をほぼ独占した。
- スペイン=ハプスブルク家:1516〜1700 カルロス1世(在位1516〜56, カール5世(神聖ローマ皇帝)としては在位1519〜56)がスペインに開いた王家。父方の祖父がハプスブルク家の神聖ローマ皇帝であった。こののち、東西を両ハプスブルク家に包囲されたフランスとの対立が激化する。1700年に王位が断絶し、フランスのブルボン家がスペイン王位を引き継いだ。
7章 ヨーロッパ世界の形成と発展
東ヨーロッパ世界の成立
南スラヴ人の動向
南スラヴ人の中で、バルカン半島西北部に位置したスロべニア人とクロアチア人は似通った道を歩んだ。9世紀にフランク王国の支配下に入るとカトリックを受け入れ、その後スロベニア人は14世紀前半から、またクロアチア人もハンガリーの支配を経て16世紀前半から、ともにオーストリア・ハプスブルク家の支配を受けることになった。
西ヨーロッパ中世世界の変容
ドイツの分裂
ドイツでは、ホーエンシュタウフェン家とヴェルフ家との間に宿命的な対立があったが、12世紀末と13世紀半ばにフランスとイギリスが介入し、異例の国王二重選挙となった。その結果、1273年にハプスブルク家のルドルフ1世(神聖ローマ皇帝)が即位するまでの間、ドイツは実質的に皇帝不在となった(大空位時代)。ルドルフ1世(神聖ローマ皇帝)は、自家の領地広大を第一義とする典型的なドイツ貴族であり、神聖ローマ帝国は完全に形骸化していった。
13世紀を通じて、国王選挙の制度と選帝侯の地位、権限などが固定していった。1356年、ルクセンブルク朝のカール4世(神聖ローマ皇帝)は金印勅書(黄金文書)を発布し、7人の選帝侯と国王選挙の手続きを確認した。また付帯条項の中で、選帝侯は至高権・完全な裁判権・貨幣鋳造権・関税徴収権などの特権を認められ、事実上近代国家に等しい支配権を獲得することになった。その後、他の諸侯もこれにならおうと務め、西ヨーロッパ諸国が中央集権化しつつある中で、ドイツは逆に各両方国家の独立傾向が強まった。15世紀前半のアルプレヒト2世(神聖ローマ皇帝)以降、オーストリアのハプスブルク家が皇帝位を独占する(1438〜1806)ようになるが、それはもはや神聖ローマ帝国でもドイツ帝国でもなく、ハプスブルク家の帝国というにふさわしいものであった。
この間、ドイツ人はエルベ・ザール川やベーメンの森を超えて植民活動を進め(東方植民運動)、現地のスラヴ人やマジャル人を同化・吸収しつつ、いくつかの諸公国と多数の村落・都市を形成していった。その結果、オーストリア・ブランデンブルク・プロイセン(ドイツ騎士団領)といった、近代のドイツの政治を動かすことになる大領邦が成立し、ドイツ国内の重心は東方に移動した。また、今日のスイス地方の農民と市民は、13世紀以降のハプスブルク家の支配に抵抗し、1291年ウーリ・シュヴィーツ・ウンターヴァルデンの3邦が永久同盟を締結、自由と自治を守るために相互援助を誓った。
同盟にはその後、他の邦も次々に加盟し、圧迫するオーストリア(ハプスブルク家)軍を度々破った。1499年、オーストリアは失地回復をはかってシュワーベン戦争を引き起こしたが、スイス諸邦軍はこれを撃破し、事実上の独立を勝ち取った。
西ヨーロッパの中世文化
学問と大学
教会思想の統一を目指す教皇は早くから大学を支持し、都市や諸国の君主もその威信と法律知識をもつ役人養成のために、しだいに大学の重要性に着目するようになった。
ナポリ大学・プラハ大学・ウィーン大学などは、いずれも神聖ローマ皇帝ないしはハプスブルク家の君主が創立したものである。こうして、中世末期には全ヨーロッパで約80の大学を数えるまでになった。また、完全な大学は、文法・修辞・論理・算術・天文・幾何・音楽の自由7科の基礎の上に、神学・法学・医学の3専門学部を備えていた。
10章 近代ヨーロッパの成立
宗教改革
ルターの改革
ルターの改革運動の舞台となった16世紀のドイツは、300前後の大小さまざまの領邦国家、教会領や独立権をもつ帝国都市が分立し、スペイン・フランス・イギリスのような中央集権国家の形成が遅れていた。ドイツ国王は神聖ローマ皇帝を兼ねていたため、世界国家の理念にたって超国家的政策を追求し、また事実上帝位を世襲していたハプスブルク家は自己の勢力拡大に力を入れ、ドイツの国家的統一には関心を示さなかったからである。こうした政治的分裂状態のドイツは教皇庁の最も重要な財源となり、教会組織をつうじて富はローマに吸いあげられ、「ローマの牝牛」と呼ばれていた。ドイツの諸都市の中小商工業者、農民層はしだいにこのような不合理な搾取に批判をもちはじめていた。ルターの改革運動はドイツ人の感情と利害に一致する側面をもっていたのである。
ドイツにおける宗教改革運動の展開
ローマ教皇は、スペイン王位を兼ねるハプスブルク家のドイツ皇帝の勢力拡大を恐れ、フランス王国と結び、ドイツ皇帝と対立した。フランソワ1世(フランス王)は、オスマン帝国と結びドイツに圧力を加えた(ウィーン包囲)。こうした情勢のなかで皇帝も一定の妥協を迫られた。1530年アウクスブルク帝国議会では、ルター派の人文主義者フィリップ・メランヒトン(1497〜1560)が両者の調停をはかりアウクスブルクの信仰箇条(アウクスブルク信仰告白)を起草した。しかしこれはカトリックに拒否され、妥協は成立しなかった。プロテスタント諸侯と都市はシュマルカルデン同盟を結んで旧教派に対抗した。1546〜1547年、皇帝・旧教派とプロテスタント勢力の間にシュマルカルデン戦争がおこった。
カルヴァンの改革
マルティン・ルターの改革とならんでスイスでもフルドリッヒ・ツヴィングリ(1484〜1531)とジャン・カルヴァン(1509〜1564)が宗教改革を進めていた。ハプスブルク家の領土であったスイスでは、14世紀から各州や都市が独立し、連邦国家を事実上形成していた。この地域はイタリアとアルプス以北の地域をつなぐ交通の要路として、諸国の抗争の圏外にたち、バーゼル・ジュネーヴ・チューリヒなど国際的都市も発展した。これらの都市は外国の支配から政治的に独立し、その都市の教会をローマ教皇の隷属から解放しようとしていた。
11章 ヨーロッパ主権国家体制の展開
ヨーロッパ主権国家体制の形成
イタリア戦争
ルネサンス文化が開花した15〜16世紀のイタリアでは、ヴェネツィア、フィレンツェ、ミラノ、教皇領など中小の諸国家が相互にその勢力を維持、拡大を求め抗争を続けていた。この抗争にはイタリアでの覇権をめぐるフランス(ヴァロワ家)とハプスブルク家の対立が加わり、イタリア地方を舞台に絶えざる戦闘や複雑な外交的駆け引きがくりかえされた。ナポリ王位継承権を主張するフランスのイタリア侵入は、シャルル8世(フランス王)(位1483〜1498)に始まり(1494)、次王ルイ12世(フランス王)(位1498〜1515)、フランソワ1世(フランス王)(位1515〜1547)とひきつがれ、フランスはミラノ公国を手中におさめた。スペイン王カルロス1世が皇帝選挙でカール5世(神聖ローマ皇帝)(位1519〜1556)となると、1521年イタリアに軍を進め、フランスとの間にイタリア戦争(1494〜1559)が展開された。フランスが敗れると、神聖ローマ軍によるローマの略奪がおこなわれ、教皇を屈服させた(ローマ劫掠)。フランソワ1世(フランス王)はその後もイギリスやオスマン帝国と結ぶなどしてイタリアでの戦争を続けた。しかし、1544年のクレピーの和約でイタリアにおけるドイツの優位が確立、フランソワの死(1547)とアンリ2世(フランス王)(位1547〜1559)とフェリペ2世(スペイン王)の間に結ばれたカトー・カンブレジ条約(1559)で、フランスはイタリア支配を断念し、イタリア戦争は終わりをつげた。
スペイン絶対王政の確立
グラナダ陥落によってようやくレコンキスタを完了したスペインは、このポルトガル王国とともに1493年、教皇名による分解線を設定、翌年、教皇抜きでこれを修正したトルデシリャス条約によって世界の2分割をはかった。さらにこうしてスペインは、対外的にも広大な植民地を獲得して世界帝国となっていった。
しかし国内的には、スペインはカスティリャ・バレンシア・アラゴン・カタルーニャなど、地方分権的な性格がきわめて強く、国民国家としての統合は十分ではなかった。1516年には、オーストリアのハプスブルク家からでたカルロス1世(スペイン王)(位1516〜1556)が即位し、ヴァロワ朝フランスのフランソワ1世(フランス王)(位1515〜1547)と争って神聖ローマ帝国にも選出された(カール5世(神聖ローマ皇帝)(位1519〜1556))彼の即位には、トレドなどの都市勢力が強く反対し、いわゆるコムネーロスの反乱(1520)をおこした。この反乱を鎮圧したカルロス1世(スペイン王)は、議会の抵抗をも抑えて、スペインに絶対王政を確立した。
こうしてカルロス1世(スペイン王)は、ネーデルラントのブルゴーニュ公領をはじめ、ヨーロッパ大陸に広大な領土を獲得した。また、プロテスタント派諸侯の抵抗を排しながら、キリスト教世界の統一をねらってイタリア戦争( イタリア戦争)を続けた。しかし、1556年には王室財政が破綻したため、退位せざるをえなくなった。皇帝位は弟フェルディナント1世(神聖ローマ皇帝)(位1556〜1564)がつぎ、スペインの王位は息子のフェリペ2世(スペイン王)(位1556〜1598)に譲った。
危機の時代の主権国家
「17世紀の危機」と三十年戦争
フランスが新教派のスウェーデンを支持したことにみられるように、戦争そのものに、ヨーロッパの覇権争いの意味が含まれていた。この意味で、三十年戦争は、宗教戦争としては最後の戦争となったのである。ウェストファリア条約ではまた、ネーデルラント共和国(オランダ共和国)とスイスの独立が国際的に承認された。またこの戦争によって、皇帝=ハプスブルク家の勢力が衰退し、北ドイツの一部をえたスウェーデンの力が強くなった。
プロイセンとオーストリアの絶対王政
オーストリアのハプスブルク家は、15世紀以降、神聖ローマ皇帝を世襲してきた。フランスと結んだオスマン帝国の侵攻にしばしば悩まされ、1529年と1683年には、首都ウィーンを包囲された。( オスマン帝国の拡大 – 第1次ウィーン包囲, 第2次ウィーン包囲 )しかし、この危機を脱したのちはカルロヴィッツ条約(1699)でハンガリーの支配権を確立し、11の民族からなる多民族国家として、ヨーロッパ有数の強国にのしあがった。
しかし1740年に男子の相続者が絶え、父カール6世(神聖ローマ皇帝)の残した「プラグマティッシェ=ザンクティオン(王位継承法)」に従って、皇女マリア・テレジア(位1740〜1780)がハプスブルク家の領土をつぐと、フランスやプロイセンが異議を唱えて開戦した(オーストリア継承戦争 1740〜1748)。この戦争でマリア・テレジアはオーストリア王位の継承は承認されたが、シュレジエンの領有は認められなかった。このためマリア・テレジアは、1756年には宿敵ブルボン家のフランスと結ぶという思い切った政策をとって、シュレジエンの奪回をめざした(七年戦争 1756〜1763)が、やはり成功しなかった。即位後のマリア・テレジアは、中央集権化をめざして行政・軍事・税制などの改革に努め、商工業の振興など富国強兵をはかることで、プロイセンに対抗しようとした。農民の保護をめざして農業改革を実践したのも、オーストリアの国力の回復をねらってのことであった。
1765年から母マリア・テレジアと共同統治を始めたヨーゼフ2世(位1765〜1790)は、カトリックを守るべき立場の神聖ローマ皇帝を兼ねていたにもかかわらず、宗教の自由を認め、教育や税制の改革、農奴解放をさえ試みたといわれる典型的な啓蒙専制君主であった。しかし、ネーデルラントやハンガリーで反乱がおこり、教会勢力の反発もあって、その政策は十分な効果をあげることができなかった。
12章 欧米における近代社会の成長
フランス革命とナポレオン
ナポレオン帝国の崩壊
皇帝となったナボレオンは1809年、世つぎをえるためと、ヨーロッパの伝統的権威と結びつくため、ジョゼフィーヌと離婚し、翌10年ハプスブルク家のマリ=ルイズを后に迎えた。ジョゼフィーヌは十分泣きはらしたのち、皇后の称号と莫大な年金、マルメゾンの宮殿をあてがわれて身をひいた。ジョゼフィーヌは、ナポレオンがエルバ島に流されていた間、マルメゾンで死んだ。この報せを聞いたナボレオンは数日間ふさぎこんでいたという。
13章 欧米における近代国民国家の発展
ウィーン体制
1848年の革
ドイツでは、1848年3月、ベルリンにおいて暴動が発生したため(ベルリン三月革命)プロイセン国王は譲歩し、自由主義内閣が成立した。しかしフランクフルト国民議会の長期化、フランスの六月暴動の鎮圧など8月をさかいに反動化が進み、11月制憲議会も弾圧されて革命は失敗に終わった。議会の同意を必要としない国王の無期限議会解散権や戒厳令の施行を定めた欽定憲法の草案が発表され、わずかな修正をへて最終的には1850年に成立した。一方、フランクフルト Frankfurt では地主・大学教授・資本家など自由主義者を中心にして全国から「統一と自由」を求めて国民会議が48年5月開催されたこれをフランクフルト国民議会という。この会議ではプロイセン国王を統一国家の王とする小ドイツ主義とオーストリアのハプスブルク家を王とする大ドイツ主義が対立し、紛糾を続けた。48年12月にドイツ国民の基本権を、49年3月にはドイツ国憲法を制定し、さらに小ドイツ主義の立場が採択されてフリードリヒ=ヴィルヘルム4世(プロイセン王) Friedrich Wilhelm Ⅳ (位1840〜61)にドイツ国王に即位するよう要請したが、彼は革命派からは王冠はうけられないとしてこれを拒否したため行き場を失い、49年6月になると武力弾圧によって解散させられた。
オーストリアの支配下であったハンガリーでは、1849年4月になってブダとペストにおいてコシュート Kossuth (1802〜94)が反乱をおこし、ハプスブルク家からの離脱をはかったが、ロシア軍の介入もあって失敗に終わった。
14章 アジア諸地域の動揺
オスマン帝国支配の動揺とアラブのめざめ
オスマン帝国支配の動揺
バルカン半島では、ハプスブルク家オーストリアとロシアの南下が始まった。オスマン帝国は、第2次ウィーン包囲(1683)に失敗して手痛い打撃をうけ、1699年のカルロヴィッツ条約 Karlowitz では、オーストリアにハンガリーとトランシルヴァニアを、ヴェネツィアにモレアとダルマツィアを割譲することとなった。