ハルジー朝 またはハルジー・スルターン朝(
A.D.1290〜A.D.1320)
奴隷王朝の第9代スルターンギヤースッディーン・バルバンの後を継いだ孫のムイズッディーン・カイクバードは若年で統率力が無く内紛が続き、ハルジー族の長ジャラールッディーン・ハルジーが1290年にカイクバードを殺害して奴隷王朝を滅ぼし、自らスルターン位に即位してハルジー朝を開いた。モンゴル帝国によるインド侵入を数度に渡って撃退、南インド遠征を敢行し、ヤーダヴァ朝、カーカティーヤ朝、ホイサラ朝といったヒンドゥー王朝を服属させ、パーンディヤ朝の首都マドゥライを落とし、1310年までにデカン、インド南部の大半を占領してデリー・スルタン朝に広大な版図をもたらした。
ハルジー朝
イスラーム世界の形成と発展
インド・東南アジア・アフリカのイスラーム化
デリーのムスリム政権
1206年に、奴隷出身の部将クトゥブッディーン・アイバクが、君主であるゴール朝のシハーブッディーン・ムハンマドの暗殺事件に乗じて同王朝のインド領を奪い、デリーを都とするインド最初のイスラーム王朝を創始した。後継者にも奴隷出身者が多かったため、この王朝は奴隷王朝と呼ばれる。
その後の320年間に、デリーにはハルジー朝、トゥグルク朝、サイイド朝、ロディー朝と、ムスリム王朝が交替した。奴隷王朝の時代にアッバース朝のカリフからスルタンの称号をえたため、これら5王朝はデリー・スルターン朝と総称される。
ロディー朝がアフガン系であるほかは、いずれもトルコ系の王朝である。
デリーのスルタンたちによる征服事業は着実に進められた。そして14世紀前半、ハルジー朝のアラー・ウッディーン・ハルジーからトゥグルク朝のムハンマドに至る時代に、南インドの殆どを支配下におさめた。しかし14世紀頃からデリーの政権は弱体化し、インド各地でヒンドゥー教あるいはイスラーム教を奉ずる地方政権が独立した。
1398年のティムールによる北インド侵寇とその後の混乱でトゥグルク朝が倒れると、サイイド朝・ロディー朝がそのあとを継いだが、いずれも短命で、デリーの政権はかつての隆盛を取り戻すことはできなかった。
1398年のティムールによる北インド侵寇とその後の混乱でトゥグルク朝が倒れると、サイイド朝・ロディー朝がそのあとを継いだが、いずれも短命で、デリーの政権はかつての隆盛を取り戻すことはできなかった。
歴史
- 初代スルターンジャラールッディーン・ハルジーは1296年に甥のアラー・ウッディーン・ハルジーによって暗殺される。
- 第3代スルターンに自ら即位したアラー・ウッディーン・ハルジーは卓越した軍事的才能の持ち主で、モンゴル帝国によるインド侵入を数度に渡って撃退した。ギヤースッディーン・バルバンに率いられた奴隷王朝に撃退されて以降、モンゴル帝国が抱いていたインド侵略を再び挫折させることに成功し、これらの武勲で一気に名声を高めたアラー・ウッディーンは自らを「第二のアレクサンドロス大王(シカンダル・サーニーまたはスィカンダル・サーニー)」と称した。
- アラー・ウッディーン・ハルジーはモンゴル帝国の脅威がなくなるとマリク・カーフールに命じ、積極的なデカン、南インド遠征を敢行し、ヤーダヴァ朝、カーカティーヤ朝、ホイサラ朝といったヒンドゥー王朝を服属させ、パーンディヤ朝の首都マドゥライを落とし、1310年までにデカン、インド南部の大半を占領してデリー・スルタン朝に広大な版図をもたらした。
- また、この頃、現アフガニスタンの山岳地帯に駐留してたびたびインドに侵入してきたモンゴル帝国のチャガタイ・ハン国軍を、ハルジー朝に仕える地方総督のギヤースッディーン・トゥグルクらの活躍で撃退し、インドの自立を保っている(モンゴルのインド侵攻)。
- アラー・ウッディーン・ハルジーは、内政面においては、貴族統制のために密告を奨励したり、ヒンドゥー教徒の地方領主を抑圧して統制力を高め、厳格な物価統制や検地による経済と税収の安定化を行なうなど、強圧的に施策を行った。さらに、デカン、南インド遠征の成功により得た多大な戦利品などもあって、ハルジー朝は文化的、経済的にも大きく発展することとなり、全盛期を迎えた。だが、アラー・ウッディーンの晩年には奢侈に溺れ、早くも衰退の兆しが見え始めた。
- 1316年にアラー・ウッディーン・ハルジーが死去した後、アラー・ウッディーンの側近であった宦官のマリク・カーフールが実権を掌握した。
- さらにカーフールの政権が短期間で倒れた後も、スルターン位と権力を巡る争いが続いて政治が混乱し、この内紛でハルジー朝は急速に衰退していった。
- 後を継いだのは結局、アラー・ウッディーンの放蕩者の息子クトゥブッディーン・ムバーラク・シャーで、奴隷のホスロー・ハーンが実権を握って、1320年にムバーラク・シャーは殺害された。
- 同年にギヤースッディーン・トゥグルクが内紛を制して、トゥグルク朝を起こしてハルジー朝に取って代わり、アラー・ウッディーンの死からわずか4年後、ハルジー朝はわずか30年で滅亡した。
参考 Wikipedia
歴代君主
- ジャラールッディーン・ハルジー(在位:1290年 – 1296年)
- ルクヌッディーン・イブラーヒーム(在位:1296年)(ジャラールッディーン・ハルジーの子)
- アラー・ウッディーン・ハルジー(在位:1296年 – 1316年)(ジャラールッディーン・ハルジーの甥)
- シハーブッディーン・ウマル(在位:1316年)(アラー・ウッディーン・ハルジーの子)
- クトゥブッディーン・ムバーラク・シャー(在位:1316年 – 1320年)(アラー・ウッディーン・ハルジーの子)
参考 Wikipedia