バスティーユ牢獄襲撃
バスティーユ牢獄襲撃(ジャン=ピエール・ウエル画/ビブリオテーク・ナショナル蔵/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

バスティーユ牢獄襲撃


バスティーユ牢獄襲撃 Bastille (1789.7.14)

フランス革命最初の虐殺事件。武器・弾薬などを求めるパリの民衆が絶対王政の象徴とされたバスティーユ牢獄を襲撃・占拠・虐殺。革命に民衆が介入した事件は地方にも波及し、大恐慌は全国に広がった。

バスティーユ牢獄襲撃

欧米における近代社会の成長

フランス革命とナポレオン

革命の勃発

第三身分は、議員の身分別資格審査を拒否し、身分別の投票でなく、個人別投票を要求、身分別のいかなる審議も拒否して特権身分と対立した。妥協策を探して1ヶ月をへたのち、1789年6月17日、一部聖職者議員を加えて集まった第三身分議員は、彼らのみが国民を代表しているとし、みずからの会を「国民議会」 Asemblee Narionaleと宣言した。6月20日、第三身分議員は、議場が閉鎖されていたので、宮殿の球戯場に集まり、憲法を制定するまで解散しないことを、1人をのぞき満場一致で宣誓した(球戯場〈テニスコート〉の誓い)。国王は聖職者と貴族に第三身分と合流することを勧告し、国民議会を承認した(6月27日)。国民議会は正式に憲法制定国民議会と改称し、憲法制定に着手した(7月9日)。国民議会の成立は革命的ではあったが、最終的には王の承認をえて、法に従って達成されたものであった。

国王の側近は国王に強硬な態度をとらせようとした。国王はヴェルサイユに軍隊を集結させ、財務長官ネッケルを罷免した(7月11)。温厚で優柔不断なルイ16世(フランス王)には、断固たる方針も戦略もなかったが、軍隊による威嚇を感じたパリでは、市民の騒ぎが過熱していた。パレ=ロワイヤル界隈では扇動者が市民に武装を呼びかけていた。7月12日、デモは武器製造所の略奪や入市税関署の放火などの騒乱に変わり、秩序維持のため都市民兵(国民衛兵)が編制された。7月14日群衆は廃兵院で小銃と大砲を奪い、武器と弾薬があると思われたバスティーユ監獄 Bastille を襲撃した(バスティーユ牢獄襲撃)。監獄が占拠されたあと革命最初の虐殺がおこなわれ、バスティーユ司令官・パリ市長などが犠牲となった。

バスティーユ監獄:14世紀にたてられた城塞。17世紀から監獄として使われた。投獄されるものは貴族やブルジョワが多く、かなり快適な生活を送っていた。囚人の数も少なく、経費節減からネッケルにより取りこわしが決定され、落札業者も決まっていた。
革命の進展

バスティーユ事件そのものは囚人7人を解放した程度で、都市騒乱としてとるにたらない事件ともいえたが、革命に民衆が介入したというその象徴的意味や政治的影響力は大きかった。1789年7月16日ネッケルは呼びもどされ、翌17日国王はパリを訪問し、国民衛兵創設や新市長バイイ就任などパリ市が独自におこなった改革を認めた。事件は地方にも波及し、各都市で新しい自治体と民兵が組織された。農村では「貴族の陰謀」の噂が恐怖を呼び、自衛した農民たちが領主の館を襲撃、古文書や土地台帳を焼きすて、また買い占め商人や高利貸しなどを襲うなどの騒動が頻発した。この「大恐怖」は全国的な広がりをみせ、国民議会もまた事態に衝撃をうけた。収拾をあせった議員たちは8月4日の夜、ノアイユ子爵らによって提案された封建的諸特権の廃止を、集団的熱狂のなかで可決し宣言した。租税上の特権、領主裁判権、教会の十分の一税、官職売買などさまざまな封建的な特権が廃止された。

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詳説世界史研究

現在はバスティーユ広場となっており、広場中央には1830年7月革命の記念柱 (Colonne de Juillet) が立っている。広場に面しては、かつて郊外線のバスティーユ駅があったが、廃止後に解体され(1859年開業、1969年廃止、1984年解体)、1989年よりオペラ・バスティーユが建てられている。

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