パリサイ派
紀元前176のマカバイ戦争直後から紀元1世紀頃(第二神殿時代後期)にかけて存在したユダヤ教の一派。
パリサイ人・ファリサイ派・ファリサイ人ともいう。語義は「分離した者」。ユダ・マカバイを中心としてハシディーム派の敬虔な一派から分離した人々。
律法厳守に徹して民衆や他宗派に接せず、ユダヤ教の創始者エズラに従い口伝律法も成文律法と同様に権威を有するとしてその拘束性を主張。サドカイ派と異なり非ユダヤ的なものに反対し、熱心党が目指したような政治闘争には加わらず、死後の応報・肉身のよみがえりを信じて自由意志と予定の結合を唱えた。ナザレのイエスの教説に反対し、福音書では偽善者と非難されるが宗派としては純正な立場をとりシメオン・ザカリアス・パウロなどすぐれた人材を擁していた。前2世紀から紀元70年のイェルサレム陥落まで勢力を保ち、ヘロデ大王の頃6000人に達したという。しかし70年以後も残存し、ラビの思想に影響を残した。(ブリタニカ国際大百科事典)
パリサイ派
ヨセフスの説
フラウィウス・ヨセフスは著作の中で、ユダヤ教の四学派の一つとしてファリサイ派を挙げている(他の三つはサドカイ派、エッセネ派、熱心党)。ヨセフスがあえて不適切な「学派」という言葉を用いたのは、ギリシア哲学に親しんでいた当時の地中海世界の読者を想定していたためであった。ユダヤ戦争の終結までは、ファリサイ派も含めユダヤ教において特定のグループが主流派となることはなかった。
発生から神殿の崩壊まで、ファリサイ派は常にサドカイ派と対立していた。対立の理由はいくつかある。
- 富裕層の支持が多いサドカイ派と、貧困者に支持者の多いファリサイ派、という階級対立があった。
- ヘレニズム文化に対して柔軟なサドカイ派と、否定的なファリサイ派の間には、文化的な対立があった。
- 祭司が多かったサドカイ派は神殿によってその権威を笠に着ていたが、ファリサイ派は民衆の中に入ってモーセの律法の精神を生きるよう説いていた、という違いがあった。
- 聖書やそこから派生した多くの律法の解釈の違いが種々あることも対立の要因となっていた。
神殿の崩壊後、神殿に拠っていたサドカイ派は消滅したため、ファリサイ派がユダヤ教の主流派となっていった。こうして会堂に集まって聖書を読み、祈りを捧げるというファリサイ派のスタイルが、ユダヤ教そのもののスタイルとなっていった。