フェートン号事件
フェートン号(長崎歴史文化博物館蔵/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

フェートン号事件


フェートン号事件 (1808)
イギリスの軍艦フェートン号が鎖国体制下の長崎湾内に侵入し、薪水・食料を強奪して退去した事件。ナポレオン戦争でフランスの属国となっていたオランダがアジア各地にもっていた拠点を奪おうとしており、その一環としてフェートン号がオランダ商館のある長崎港に侵入。英仏戦争の余波を受けて起こった。

フェートン号事件

イギリスの軍艦フェートン号がオランダ戦捕獲の目的で長崎湾内に侵入し、薪水・食料を強奪して退去した事件。ナポレオン戦争でオランダはフランスの属国となっていたこともあり、英仏戦争の余波を受けて起こった。

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幕藩体制の動揺

幕府の衰退

列強の接近
19世紀前半列強とその領土地図
19世紀前半列強とその領土地図 ©世界の歴史まっぷ

北方での緊張に加え幕府に衝撃を与えたのが、フェートン号事件である。1808(文化5)年、イギリス軍艦フェートン号が長崎港に侵入し、オランダ商館員を人質にとって、薪水しんすい・食糧を強要した。この事件で、長崎奉行の松平康英(1768〜1808)は責任をとって自害し、長崎警護の役を負っていた佐賀藩主は、警備怠慢の責任を問われ、処罰された。幕府はこれらの事件を受けて、1810(文化7)年、寛政の改革以来の懸案であった江戸湾の防備に着手し、白河・会津両藩に命じた。

ゴローウニン事件とフェートン号事件

ディアナ号艦長のゴローウニンは、世界周航の途中、国後島を測量中に幕府役人に捕えられ、2年3カ月間、箱館・松前に監禁された。ロシアも幕府御用商人高田屋嘉兵衛を捕えたが、ロシア側が1813(文化10)年、ロシア軍艦の蝦夷地襲撃はロシア政府の命令ではなく、出先の軍人が勝手に行ったものであるという文書を日本側に提出し、釈放された。ゴローウニンが著した『日本幽囚記』は、各国で翻訳され、日本に関する新たな知識を提供した。また、ナポレオン時代のフランスと戦っていたイギリスは、当時、フランスの属国となっていたオランダがアジア各地にもっていた拠点を奪おうとしており、その一環としてフェートン号がオランダ商館のある長崎港に侵入したのがこの事件である。いわばイギリスとフランスの戦争の余波であった。

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列強の接近と幕府の対応

徳川列強の接近元号幕府の対応
家治1778〜79ナタリア号が、蝦夷地に来航
(通商を求めたが松前藩は拒否)
天明1783工藤平助の『赤蝦夷風説考』の意見採用
1784田沼意次による蝦夷地開拓を計画
1786最上徳内を蝦夷地へ派遣
家斉1792使節ラクスマン根室に来航。漂流民(大黒屋光太夫ら)を伴い、エカチェリーナ2世の命で通商を要求
(幕府は通商を拒絶。長崎入港を許可する証明書〈信牌〉を渡し、帰国させる)
寛政1792林子平が『三国通覧図説』『海国兵談』で海防を説いたことを幕府批判として処罰
1798近藤重蔵・最上徳内ら、択捉島を探査(「大日本恵土呂府」の標柱をたてる)
1799東蝦夷地を直轄地とする
1800伊能忠敬、蝦夷地を測量
1804使節レザノフ、長崎に来航
(通商を要求するが、幕府は拒絶)
文化

文政
1806文化の撫恤令(親水給与令)
1807松前藩と蝦夷地をすべて直轄(松前奉公の支配下のもとにおき、東北諸藩を警護にあたらせる)。近藤重蔵、西蝦夷地を探査
1808
フェートン号事件
(英軍艦フェートン号、長崎に侵入)
1808間宮林蔵、樺太とその対岸を探査(間宮海峡の発見)
1810白河・会津両藩が江戸湾防備を命じられる
1811ゴローウニン事件
(露軍艦長ゴローウニン、国後島に上陸して捕らえられ、函館・松前に監禁)
1813高田屋嘉兵衛の送還でゴローウニンを釈放
1821蝦夷地を松前藩に還付
1824英船員、大津浜に上陸(常陸)
英船員、宝島に上陸(薩摩)
1825異国船打払令(無二念打払令)
1828シーボルト事件
家慶1837モリソン号事件
(米船モリソン号、浦賀と山川で砲撃される)
天保1839蛮社の獄(渡辺崋山・高野長英らを処罰)
1842〜42アヘン戦争
(清が英に敗れ、南京条約を締結)
1842天保の薪水給与令(異国船打払令を緩和)
1846米東インド艦隊司令長官ビッドル、浦賀に来航弘化

嘉永
1844オランダ国王開国勧告(幕府は拒絶)
家定1853米東インド艦隊司令長官ペリー、浦賀に来航。1846ビッドルの通商要求拒絶
1853使節プチャーチン、長崎に来航1853大船建造の禁を解く
1854日米和親条約日露和親条約・日英和親条約締結
1855日蘭和親条約締結
参考:山川 詳説日本史図録 第7版: 日B309準拠
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