フランシスコ・ザビエル( A.D.1530〜A.D.1587)
ナバラ王国生まれのカトリック教会宣教師・聖人。イエズス会創立メンバーの1人。日本にはじめてキリスト教を伝えたが、信者はあまり獲得できず、中国へ渡るが志半ばにして病死。ザビエルの足跡はその後の布教活動の土台となった。
フランシスコ・ザビエル
日本人を高く評価したイエズス会宣教師
「日本人はこれまで発見された国民のなかでも、もっともよい者である。異教徒のなかでこれほど優れた者はいないだろう。日本人は慎み深く、富より名誉を重んじる国民なのだ。」
1549(天文18)年、インドをへて鹿児島に上陸したイエズス会の宣教師ザビエルは、日本人を高く評価し、キリスト教が浸透していくだろうと期待をもった。早速、薩摩の島津貴久に面会して、布教の許可を得たのだった。
だが1年の滞在で、獲得できた信者はわずか100人。島津の関心はもっぱらポルトガルとの貿易にあり、その方便としてキリスト教を利用したにすぎなかった。仏僧との対立も深まり、鹿児島を離れたザビエルは、平戸、博多、山口を回って京都へ上った。天皇や将軍から布教の許可を得ようとするが、失敗に終わる。1551年には日本を離れ、中国伝道の旅に向かうが、志半ばにして病死。ザビエルの足跡は、その後の布教活動の土台となった。
略年表
- 1506年 ナバラに生まれる
- 1525年 パリ大学に留学
- 1534年 イエズス会を創設
- 1542年 ジョアン3世(ポルトガル王)の依頼でインド、東インド諸島各地で宣教をはじめる
- 1549年 鹿児島に来航し、日本各地で初めてキリスト教を布教する
- 1552年 中国で病死
ザビエル来航450年を記念して、1990年に鹿児島市の鹿児島カテドラル・ザビエル教会向かいのザビエルクエン内に設置された碑。
世界史
アジア諸地域の繁栄
東アジア・東南アジア世界の動向
明後期の社会と文化
インド航海路の開拓後、ポルトガル商人はさかんに東アジアへ来航した。彼らは1517年、広東付近に来航して以降、明朝と交易を開き、1557年にはマカオに居住権をえた。アジアへ向かうポルトガル商船には、商人ばかりでなくキリスト教宣教師も乗船していた。当時ヨーロッパでは、プロテスタントによる宗教改革がおこなわれていたが、カトリック側では対抗宗教改革(反宗教改革)運動のひとつとしてイエズス会(ジェズイット教団)が結成され(1534)、その重要な活動のひとつが海外布教であった。イエズス会の創立者のひとりであるフランシスコ・ザビエル(1506〜1552)は、はじめゴア・セイロン・マレー半島などで布教活動をおこない、その後、1549年日本に初めてキリスト教を伝えた。さらに彼は布教のため中国へ渡ったが、1552年、広州港外の上川島で病死した。
近代ヨーロッパの成立
宗教改革
カトリックの改革
1545年から1563年にかけて開かれた南ティロルで開催されたトリエント公会議は、新旧両教会の調停をはかる目的であったが、新教側が出席を拒否し、実際はカトリックの立場を確認する場となった。会議では教皇の首位権、教会のおこなう秘蹟授与の儀礼、贖宥状の意義などカトリックの主要な教義が再確認された。しかし、贖宥状や秘蹟授与には金銭を徴収しないこと、俗人教育のための信仰問答集の作成をすることなど教会内部の粛清をはかった。また禁書目録を定め、総合宗教裁判所を設置するなど異端に対する取り締まりを厳しくし、新教の勢力拡大に対抗しようとした。1534年にスペインの軍人イグナティウス・ロヨラ(1491頃〜1556)とその同士により設立された新しい修道会であるイエズス会(ジェズイット教団)は、新教に対抗し、カトリックのための闘争を展開した。
スペイン人の兵士であったイグナティウスは、1534年フランシスコ・ザビエルらとともにパリでイエズス会を創立した。彼は1537年ローマに行き、活動を広め、1540年パウルス3世(ローマ教皇)よりイエズス会を公認された。「質素・純潔・服従」を綱領とし、カトリック精神を広めるために会員を全世界に派遣した。
イエズス会は教皇の認可をうけ、会士は教皇に対し特別の忠誠を誓い、厳格な規律をもつ軍隊的な組織をつくり活動した。ヨーロッパではいくつかの新教勢力地域をカトリックにひきもどすことに成功した。会士はアメリカ大陸やアジアなどに宣教師として派遣され、海外伝道活動にたずさわった。東洋伝道で日本に来たフランシスコ・ザビエル(1506頃〜1552)はイエズス会設立メンバーのひとりであった。
日本史
幕藩体制の確立
織豊政権
南蛮貿易とキリスト教
南蛮貿易は、キリスト教宣教師の布教活動と一体化して行われていた。1549(天文18)年、日本布教を志したイエズス会(耶蘇会)の宣教師フランシスコ=ザビエル(1506〜52)が鹿児島に到着し、大内義隆・大友義鎮(宗麒、1530〜87)らの大名の保護を受けて布教を開始した。当時ヨーロッパでは宗教改革によるプロテスタントの動きが活発であったが、カトリック側も勢力の挽回をはかって、アジアでの布教に力を入れる修道会も多かった。その一つがイエズス会である。日本では当時キリスト教をキリシタン(吉利支丹・切支丹)宗・天主教・耶蘇教などと呼び、宜教師をポルトガル語のパードレから転じたバテレン(伴天連)の名で呼んだ。
ザビエルの布教活動
ザビエルは1506年にイベリア半島の小国ナバラ王国(その数後スペインに併合)の貴族の子として生まれた。パリに留学中、イグナティウス゠ロヨラ(Ignatius Loyola、1491〜1556)と出会ってイエズス会に参加し、1541年、ポルトガル国王の要請に応じて布教のためインドのゴアに赴いた。1547年マラッカで日本人アンジロ一と出会ったことがきっかけとなって日本行きを決意し、2年後アンジローらとともに鹿児島に上陸した。その後、平戸・山口·京都・豊後府内を歴訪したザビエルは、1551年、2年3カ月にわたる日本での布教活動を終え、いったんゴアにもどるが、早くも翌年には中国布教を志して中国に出発する。しかし.上陸を目前にして病にかかり、上川(サンチュアン)島で46歳の生涯を閉じた。ザビエルが東アジア布教に果たした功績は大きく、1622年に聖人に列せられ、1904年、「世界の伝道事業の保護者」とされた。
イエズス会
イエズス会はスペインの貴族イグナティウス゠ロヨラが、1534年にザビエルら同志7人とともにパリで創立したカトリックの教団の一つで、これに属する人がジェズイット(Jusuite)である。したがってジェズイット会ともいい.中国では耶蘇会とあてたが現在の日本での公称はイエズス会となっている。会は1540年に教皇パウロ3世(パウルス3世(ローマ教皇)に公認され、会員は軍隊的訓練を受け、厳格な規律を守り、教皇を首長と仰いで旧教勢力の拡大、新教撲滅の信念に燃えて積極的な布教活動に乗り出した。
その後宣教師は相ついで来日し、南蛮寺(教会堂)やコレジオ(宣教師の養成学校)・セミナリオ(神学校)などをつくり、熱心に布教につとめた。ザビエルのあと、ポルトガル人宣教師ガスパル゠ヴィレラ(1525〜72)や『日本史』の著者として知られるルイス゠フロイス(1532〜97)らが九州を中心に近畿・中国地方の布教につとめ、キリスト教は急速に広まった。信者の数は1582 (天正10)年ころには、肥前・肥後・壱岐などで11万5000人、豊後で1万人、畿内などで2万5000人に達したといわれる。
スペイン出身の宣教師。1534年、ロヨラとイエズス会を創設し、1541年インドに向かう。マラッカで日本人アンジロウに会い日本布教を決意。1549年(天文18)、鹿児島に上陸し京を経て大内義隆、大友宗麟と会見。1551年インドに帰り、翌年中国広東省で病没。 ビジュアル版 日本史1000人 上巻 -古代国家の誕生から秀吉の天下統一まで
同時代の人物
大友宗麟(1530〜1587)
戦国大名。豊後、豊前、筑前、筑後、肥前、肥後の北九州6か国を平定。南蛮貿易のためにキリスト教を庇護し、自らも信者となる。毛利氏と抗争を繰り返した。