フランツ=ヨーゼフ1世 Franz Joseph I( A.D.1830〜A.D.1916)
オーストリア皇帝(在位1848〜1916)。1848年革命の混乱のなかで即位し、翌年ハンガリーの革命運動を鎮圧したのち、50年代に新絶対王政と呼ばれる反動体制をとった。66年のプロイセンとの戦争に敗れると、ハンガリーとのアウスグライヒ(妥協)を締結し、ハンガリー王を兼ねた(オーストリア=ハンガリー帝国)。
フランツ=ヨーゼフ1世
オーストリア皇帝(在位1848〜1916)。1848年革命の混乱のなかで即位し、翌年ハンガリーの革命運動を鎮圧した。そののち、50年代に新絶対王政と呼ばれる反動体制をとった。66年のプロイセンとの戦争に敗れると、ハンガリーとのアウスグライヒ(妥協)を締結し、ハンガリー王を兼ねた。
帝国の衰退と共に生きた「国父」
欧州各地に伝播したフランスの二月革命は、三月革命となってフェルディナント1世(オーストリア皇帝)と宰相メッテルニヒを表舞台から吹き飛ばした。後継は18歳のフランツ=ヨーゼフ1世。その70年近い治世は苦難に満ちていた。イタリアやハンガリーの独立運動は抑えたがイタリア統一戦争には敗北。普墺戦争にも敗れドイツ連邦から分裂。ハンガリーを王国と認める「妥協(アウスグライヒ)」行いオーストリア・ハンガリー帝国の君主となる。民族問題に悩むなか、皇位継承者を暗殺され第一次世界大戦を開戦、敗戦前に崩御。だが彼はオーストリアの象徴であり国民からは「不死鳥」「国父」と呼ばれた。

シェーンブルン宮殿に生まれ、ハプスブルク家の後継者として育てられたフランツは、王権神授説を信じ、自由主義、国民主義運動を押さえ込んだ。
欧米における近代国民国家の発展
ヨーロッパの再編
ドイツの統一

プロイセンは、一定の成果をあげたのち、64年にオーストリアと結んでデンマークと戦い、シュレスヴィヒ・ホルシュタイン両州を奪った。66年には両州の管理問題からオーストリアと開戦した。これがプロイセン=オーストリア戦争(普墺戦争)であるが、たったの7週間でプロイセンが勝利した。とくに、最大の激戦がケーニヒグレーツの戦い(サドワの戦い)においておこなわれたが、工業化と組織の近代化に成功したプロイセン軍が圧勝した。67年ドイツ連邦が解体され、プロイセン国王を盟主とする北ドイツ連邦(1867〜71)が成立した。
敗北したオーストリアは領域内のナショナリズム運動対策のためハンガリーに特権を与え、議会と行政府の存在を容認して自治権を与え(アウスグライヒ:妥協 Ausgleich )、体制内に組みこんで、オーストリア=ハンガリー帝国(1867〜1918)を形成して、支配の重点を東欧においた。しかしこのことは、オーストリアの複合民族国家としての性格をいっそう強めることになり、領域内のナショナリズム運動に苦しむことになった。
同時代の人物
吉田松陰 (1830〜1859)
長州の思想家。フランツ=ヨーゼフ1世と同い年で、彼がエリザベートと結婚したまさに同じ日、下田に停泊中の黒船へ密航を試み失敗。翌日、捕縛される。