フリードリヒ・ヴィルヘルム1世(プロイセン王)( A.D.1688〜A.D.1740)
- プロイセン王国第2代プロイセンにおける王(在位1713年2月25日 - 1740年5月31日)
- ブランデンブルク選帝侯(在位1713年〜1740年)
フリードリヒ1世(プロイセン王)の子。20万人の大軍隊を整備。重税も課したが産業も育成。強大なプロイセン軍団主義・絶対王政の基礎を築いた。
フリードリヒ・ヴィルヘルム1世(プロイセン王)
軍国主義を進めた「軍人王」
フリードリヒ1世(プロイセン王)の子。20万人の大軍隊を整備。重税も課したが産業も育成。強大なプロイセン軍団主義・絶対王政の基礎を築いた。
ヨーロッパ主権国家体制の展開
危機の時代の主権国家
プロイセンとオーストリアの絶対王政
三十年戦争で、長い間戦場となったドイツ各地は深刻な被害をうけた。政治的にもおよそ300の領邦(小国家)に分裂して、混乱状態にあった。しかし平和が訪れて以来、こうした状態の中からプロイセンとオーストリアが台頭しはじめた。この2つの領邦は、三十年戦争の被害を比較的まぬかれていたことが、勃興のひとつの背景となっていた。
17世紀初めにプロイセン公国を併合したブランデンブルク辺境伯のホーエンツォレルン家は、ベルリンを首都として、18世紀初めから王国を形成した(プロイセン王国)。フリードリヒ・ヴィルヘルム1世(プロイセン王)(位1713〜1740)のもとで、伝統的な領主貴族(ユンカー Junker)出身者を官僚・将校とする、いわば軍国主義的な絶対王政をつくりあげた。
王は軍隊の育成に心血を注いだが、この軍隊はほとんど実戦を戦うことはなく、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世が参加した戦争は大北方戦争のみであった。1714年には実質的に参戦し(1715年に宣戦布告、シュトラールズントを陥落させ、滞在していたカール12世(スウェーデン王)をドイツから追い払った)、スウェーデン軍を相手に戦ったこの戦争でプロイセンは勝利を収め、1720年のストックホルム条約で、前ポンメルン、シュテッティン、ウーゼドム島などの領地を獲得した。北ドイツでの権益拡大に成功したフリードリヒ・ヴィルヘルム1世は、スウェーデンのドイツに対する影響力を一掃し、バルト海地域での勢力図を塗り替える事に成功した。
参考 Wikipedia
子女
- フリードリヒ・ルートヴィヒ(1707年 – 1708年)
- ヴィルヘルミーネ・フォン・プロイセン(1709-1758)(1709年 – 1758年) – フリードリヒ3世(ブランデンブルク=バイロイト辺境伯)妃
- フリードリヒ・ヴィルヘルム(1710年 – 1711年)
- フリードリヒ2世(プロイセン王)(1712年 – 1786年) – プロイセン王フリードリヒ2世・ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ4世 フリードリヒ大王
- シャルロッテ・アルベルティーネ(1713年 – 1714年)
- フリーデリケ・ルイーゼ・フォン・プロイセン(1714年 – 1784年) – カール・ヴィルヘルム・フリードリヒ(ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯)妃
- フィリッピーネ・シャルロッテ・フォン・プロイセン(1716年 – 1801年) – カール1世(ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公)妃、フリードリヒ・ヴィルヘルム2世(プロイセン王)の最初の妻エリーザベト・クリスティーネ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル(1746-1840)の母
- ルートヴィヒ・カール・ヴィルヘルム(1717年 – 1719年)
- ゾフィー・ドロテア・フォン・プロイセン(1719年 – 1765年) – フリードリヒ・ヴィルヘルム(ブランデンブルク=シュヴェート辺境伯)妃
- ルイーゼ・ウルリーケ・フォン・プロイセン(1720年 – 1782年) – アドルフ・フレドリク(スウェーデン王)妃
- アウグスト・ヴィルヘルム・フォン・プロイセン(1722-1758)(1722年 – 1758年) – フリードリヒ・ヴィルヘルム2世(プロイセン王)の父
- アンナ・アマーリエ(1723年 – 1787年)
- ハインリヒ・フォン・プロイセン(1726-1802)(1726年 – 1802年)
- フェルディナント・フォン・プロイセン(1730年 – 1813年)
参考 Wikipedia