マラッカ王国
A.D.1402〜A.D.1511
マレー半島南部に栄えたマレー系イスラム港市国家。首都: マラッカ。
マラッカ王国
イスラーム世界の形成と発展
インド・東南アジア・アフリカのイスラーム化
東南アジア諸島部のイスラーム化
この時代にベトナムを除く東南アジア大陸部の諸国では、上座部仏教が民衆の間に深く浸透しつつあった。これに対し諸島部(島嶼部)では、15世紀ころから旧来のヒンドゥー教・仏教がイスラーム教にとってかわられていく。イスラーム教徒であるアラビア人やペルシア人は、早くよりインドの沿岸をまわって東南アジア海域に来航し、香辛料貿易や対中国貿易を営んでいた。インドにイスラーム政権が成立すると、イスラーム教徒であるインド人の活躍も目立つようになり、彼らが居留する東南アジアの諸港では、土着の商人や有力者の間にイスラームに改宗するものも出るようになった。
15世紀初め、海上交通の要衝マラッカにマレー人のイスラーム王国がおこり、スマトラ島の一部も領土に加えて、中継貿易で栄えた。このマラッカ王国の発展とともにイスラーム教はマレー半島からジャワ島など周辺の島々へと広まった。しかし王国は1511年にポルトガルの艦隊に攻められ滅んだ。
諸地域世界の交流
海の道の発展
東西を結ぶムスリム商人
ムスリム商人はペルシア湾岸の港市を拠点としてインド洋・東南アジアの交易に従事した。13世紀以後、ムスリム商人により飛躍的に発展した交易にイスラーム神秘主義教団の活動が結びついて、インド・東南アジアにイスラーム教が普及しはじめた。東南アジアでは、島嶼部の沿岸地帯でイスラーム教を受け入れた小王国が現れた。
マラッカ海峡はインド洋と南シナ海の接点として重要な役割を果たすようになった。特に、マレー半島の南海岸で海峡の中央部に位置する港町マラッカ(ムラカ)が中継貿易で繁栄した。ジャワ東部のマジャパヒト王国からの圧力を抑え、15世紀前半には鄭和の艦隊の保護を受けつつタイのアユタヤ朝の支配を脱し、その後はインド洋方面の交易を進めると同時にイスラーム教を受け入れ、本格的なイスラーム王国に成長した。東南アジアのイスラーム化はマラッカ王国を布教の中心として進められ、交易ルートに乗って島嶼部全域に拡大した。
1511年、ポルトガルのインド総督アフォンソ・デ・アルブケルケがマラッカ王国を占領して、ポルトガル領マラッカを成立させた。ポルトガルは武力での交易独占、さらには関税による利益の獲得をはかったが、航路の拡散やコショウ栽培地の拡大をもたらし、各勢力が分立する結果となった。
マレー半島南部のジョホール王国、ジャワ島西部のバンテン王国、ジャワ島中部・東部のマタラム王国、スマトラ島北端のアチェ王国、スラウェシ島南部のマカッサル王国などのイスラーム国家が香辛料交易で栄えた。
アジア諸地域の繁栄
東アジア・東南アジア世界の動向
明朝の朝貢世界
鄭和の南海遠征もあって、明に対する朝貢貿易は、東アジアからインド洋にわたる広範囲にかけて活発に行われた。
14世紀末ころマレー半島西南部に建国されたマラッカ王国は、当時タイのアユタヤ王国に従属していたが、15世紀前半に鄭和の南海遠征が行われるとその拠点となり、15世紀半ばには国王がイスラーム教へ改宗してイスラーム世界との結びつきを強めていった。その後マラッカ王国はアユタヤ王国から独立し、明への朝貢貿易を継続しながら、インド洋と東南アジアとの中継地点である地の利を活かし、15世紀中頃以降16世紀初期にポルトガルの進攻を受けてを受けて滅亡するまでの間、ジャワのマジャパヒト公国にかわって東南アジアにおける最大の貿易拠点となった。