マリ=アントワネット Marie Antoinette(
A.D.1755〜A.D.1793)
ルイ16世(フランス王)の妃。ハプスブルク家のフランツ1世(神聖ローマ皇帝)とオーストリア女帝マリア・テレジアの4女。軽率、浪費家で、国民の反感を買った。フランス革命が起こると旧体制の維持に努め外国勢力と秘密交渉を進めた。民衆のベルサイユ行進でパリに移され、バレンヌ逃亡事件で逃亡に失敗。1792年8月の王権停止後タンプル塔に幽閉された。ルイ16世の処刑後、パリ裁判所付属監獄に移送され、1793年10月ギロチンにかけられ処刑された。
マリ=アントワネット
フランス王ルイ16世の妃。神聖ローマ皇帝フランツ1世とマリア・テレジアの四女。1770年5月ベルサイユでのちのルイ16世と結婚。軽率、浪費家で、常に諸改革に反対し、また青年貴族たち、とりわけスウェーデン人H.フェルセンとの情愛におぼれたため、国民の間に人気がなく、1785年に起こったダイヤモンド首飾り事件は王妃の不評を決定的にした。革命が起こるや旧体制の維持に努め、国王を促して、反革命遂行のため外国勢力、特にウィーン宮廷と秘密交渉を進め、外国軍隊のフランス侵入を期待した。しかしバレンヌで逃亡に失敗(1791.6.21.)、1792年8月10日の王権停止後タンプル塔に幽閉された。ルイ16世の処刑(1793.1.21.)後、パリ裁判所付属監獄に移送され、革命裁判所で死刑の判決を受け、1793年10月16日ギロチンにかけられ処刑された。
参考 ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 プラス世界各国要覧 2018
可憐で優雅、そして凄まじい浪費癖
オーストリアからフランスの王子のもとに嫁いできたマリ=アントワネットは、金髪に青い瞳、抜けるように白い肌、ハプスブルク家特有の受け口も少しは継いでいるものの非常に美しく、可憐で優雅であった、といわれている。ただ少し、はしゃぎすぎる傾向があったようだが、十代の少女ならば、ごく自然なことだろう。だが、ほどなくフランスは彼女を憎悪するようになる。その凄まじい浪費癖のためだ。たとえばドレス。年間の衣装代は、今日の日本円にして10億円相当、1着に6000万円をかけたとか。夫からヴェルサイユ宮殿の離宮プチ・トリアノンを与えられると6億円を費やしてイギリス庭園をこしらえ、ボール遊びやかくれんぼうに興じ、仮面舞踏会や芝居を頻繁に催した。また自らお金をつくろうと、お忍びで賭博場に現れ違法な賭けカルタに朝まで興じ、見事にカモにされたりもした。母でオーストリア女帝のマリア・テレジアに叱られると、彼女は答えた。「私は退屈が死ぬよりも怖いの」1歳年上のルイは先天的に不能だった。彼女は子を産むことを義務づけられているのに、夫は役に立たず自分の趣味に引きこもっている。その期間は、ルイが外科手術により障害を克服するまで7年にも及んだ。その間のプレッシャー、不安、欲求不満、そして孤独が、彼女を享楽に駆りたてたのかもしれない。
フランスとオーストリアの狭間で
もちろん、いかに桁外れの浪費であれ国家が傾くほどではない。だが「外国から来た女が身のほども知らずに」と庶民たちを怒らせるには十分だった。革命が勃発すると彼女は愛人フェルセンの力を借り、一家でオーストリアを目指すが国境近くのヴァレンヌで捕まってしまう。以後、国王一家は国民の信頼を失い、パリで軟禁状態に置かれる。このヴァレンヌ逃亡事件の10ヶ月後、オーストリアがフランス革命に干渉、両国は戦闘状態に入る。ほどなく「マリは敵国に情報を流している」との噂が生まれた。庶民の怒りは国民の怒りに変わり、彼女を断頭台へと追いやってゆくのである。
ギャラリー
同時代の人物
杉田玄白(1733〜1793)
蘭方医。前野良沢や中川淳庵らと解剖書『ターヘル・アナトミア』を4年の歳月をかけ翻訳。マリ=アントワネットがフランス王妃となった夏に『解体新書』の題名で刊行した。