マルコ・ポーロ (1254年9月15日 – 1324年1月9日)
ヴェネツィア共和国の商人であり、ヨーロッパへ中央アジアや中国を紹介した『東方見聞録』(写本名:『イル・ミリオーネ (Il Milione)』もしくは『世界の記述 (Devisement du monde)』)を口述した冒険家でもある。フビライの使徒として各地を訪問した。
マルコ・ポーロ
フビライに仕えた17年間を獄中で口述
13世紀に築かれたモンゴル帝国により大道路網が整備され、東西の交流が盛んになった。そんな時代、ヴェネツィアの豪商の子に生まれたマルコ・ポーロは、16歳で父と叔父との貿易旅行に同行し、モンゴル帝国へやってきた。
元(王朝)のフビライとの会見でモンゴル語、中国語を使いこなしたマルコは、中国各地、さらに国境外にも使節として派遣され、見聞をフビライに報告し、大いに喜ばれたという。マルコが帰国を望んでも聞き入れてもらえなかったが、元の皇女がイルハン国の皇后となる際、同行者としてようやく元を離れることができた。17年間が経過していた。
帰国して3年後、マルコはジェノヴァとの戦争で捕虜となり、獄中で、ピサ出身の物語作家ルスティケロ・ダ・ピサに、これまで見聞きしてきたことを語って聞かせた。この口述筆記が『世界の記述(東方見聞録)』である。当時の日本を黄金の国と称するなど、誇張もあったが、大航海時代の先駆者たちの意欲を駆り立てることになった。
マルコ・ポーロの行路地図
東方見聞録
誇張された日本
ジパング(日本)は東海にあるお大きな島で、大陸から2400キロの距離にある。住民は色が白く、文化的で、物資に恵まれている。偶像を崇拝し、どこにも属せず、独立している。黄金は無尽蔵にあるが、国王は輸出を禁じている。しかも大陸から非常に遠いので、商人もこの国をあまり訪れず、そのため黄金が想像できぬほど豊富なのだ。
この島の支配者の豪華な宮殿について述べよう。ヨーロッパの教会堂の屋根が鉛でふかれているように、宮殿の屋根は全て黄金でふかれており、その価値はとても評価できない。宮殿内の道路や部屋の床は、板石のように、4センチの厚さの純金の板を敷き詰めている。…
現在の大ハンのフビライは、この島が極めて富裕なのを聞いて、占領する計画をたてた。
概要
『東方見聞録』(とうほうけんぶんろく)は、マルコ・ポーロがアジア諸国で見聞した内容口述を、ルスティケロ・ダ・ピサが採録編纂した旅行記である。マルコもルスティケロもイタリア人であるが、本書は古フランス語で採録された。
経由地
- アークル (アークル、ハイファ北東、イスラエル)
- イェルサレム (イェルサレム、イスラエル)
- ライアス (イスケンデルン、トルコ)
- カエサリア (カイセリ、トルコ)
- エルズルム (エルズルム、トルコ)
- トリス (タブリーズ、イラン)
- カズヴィン (ガズヴィーン、イラン)
- ヤズド (ヤズド、イラン)
- ケルマン (ケルマーン、イラン)
- コルモス (バンダレ・アッバース、イラン)
- サプルガン (シバルガン、アフガニスタン)
- バルク (バルフ、アフガニスタン)
- ホータン (ホータン、中国)
- チャルチャン (チェルチェン、中国)
- 敦煌 (敦煌、中国)
- 寧夏 (インチョワン、中国)
- ハンバリク・大都 (北京にあった元の首都、中国)
- ヤンジュウ (揚州、中国)
- スージュウ (蘇州、中国)
- キンサイ (杭州、中国)
- ザイトゥン (泉州、中国)
- ビンディン (ダナン、ベトナム)
- ファーレック
- コイルム (コーラム、インド)
- タナ (ムンバイ北方、インド)
- トレビゾンド (トラブゾン、トルコ)
- コンスタンティノープル (イスタンブール、トルコ)