ムハンマド=アフマド Muhammad Ahmad( A.D.1844〜A.D.1885)
スーダンの宗教指導者。1881年にマフディー(救世主)を名乗り、マフディー国家樹立。重税に苦しむ貧農や牧畜民、地元商人などを組織して、エジプトの支配に抵抗するジハード(聖戦)を決行。エジプトを占領下におさめたイギリスが派遣した「太平天国」鎮圧の英雄ゴードン将軍率いる軍を首都ハルトゥームで全滅させ、ヨーロッパを震撼させた。
ムハンマド=アフマド
スーダンの宗教指導者。1881年にマフディーを名乗り、エジプト・イギリス軍と戦い、マフディー国家を樹立した。
みずから救世主と名乗り聖戦へ
スーダンの抵抗運動指導者。マフディー(救世主)を自称し宗主国エジプトにジハード(聖戦)を決行。エジプト軍を破り、太平天国の乱の英雄ゴードンが率いる英国軍も首都ハルツームで全滅させたが、その年に病死。この後スーダンはイギリスに征服される。
アジア諸地域の動揺
オスマン帝国支配の動揺とアラブのめざめ
ウラービー運動と英仏の植民地支配
マフディー運動
ムハンマド=アリー朝の支配下におかれたスーダンでは、1881年ムハンマド=アフマド Muhammad Ahmad(1844〜85)がマフディー(救世主)を宣言し、重税に苦しむ貧農や牧畜民、あるいは地元商人などを組織して、エジプトの支配に抵抗するジハードをくりひろげた。エジプトを占領下におさめたイギリスは、85年にゴードン将軍が率いる軍を派遣したが、マフディー軍はこれをハルトゥームに全滅させ、太平天国鎮圧の「英雄」の死はヨーロッパを震撼させた。マフディーの死後もその権威による教団国家を維持したが、フランスのアフリカ横断政策を恐れるイギリスは、再度制圧に乗りだし、98年マフディー軍を破り、スーダンを統治下におさめた。
西アジアの動向 エジプト
エジプト | |
1798 | ナポレオンのエジプト侵入(〜99) |
1805 | ワッハーブ派、メディナ占領 |
1805 | ムハンマド=アリー、エジプトの実権を握る |
1818 | ムハンマド=アリー、ワッハーブ朝を滅ぼす |
1822 | ムハンマド=アリー、東スーダンを征服 |
1831 | 第1次エジプト=トルコ戦争(〜33) |
1839 | 第2次エジプト=トルコ戦争(〜40) |
1840 | ロンドン四国条約:ムハンマド=アリー、シリア放棄 |
1869 | スエズ運河完成 |
1875 | エジプト、スエズ運河会社の株式をイギリスへ売却 |
1876 | イギリス・フランス両国によるエジプトの財政管理 |
1881 | ウラービー運動(〜82):イギリス・フランス支配に抵抗するも失敗 マフディー運動(〜98):スーダンがマフディー国家樹立 |
1882 | イギリス軍、エジプトを占領、保護化 |