メソポタミア Mesopotamia (紀元前3500年頃〜紀元前525年頃)
ティグリス・ユーフラテス川両河の流域地方。「川のあいだの土地」の意味で、ほぼ現在のイラクと重なる。さらに北部がアッシリア、南部がバビロニアにわけられる。灌漑農耕が発達したが、塩害に苦しめられた。農産物のほか、粘土以外の資源に恵まれず、生活必需品との交易が必須であった。
メソポタミア
ティグリス・ユーフラテス川両河の流域地方。「川のあいだの土地」の意味で、ほぼ現在のイラクと重なる。さらに北部がアッシリア、南部がバビロニアにわけられる。灌漑農耕が発達したが、塩害に苦しめられた。農産物のほか、粘土以外の資源に恵まれず、生活必需品との交易が必須であった。
文明初期の中心となったのは民族系統が不明のシュメール人。地域的に、北部がアッシリア、南部がバビロニアで、バビロニアのうち北部バビロニアがアッカド、下流地域の南部バビロニアがシュメールに分けられる。
特徴
- 楔型文字の使用
- 青銅器の使用
- 都市国家の建設
国家興亡
ティグリス・ユーフラテス両河流域のメソポタミアで最初の都市文明を築いたのは、民族系統不明のシュメール人であった。しかし、メソポタミアは開放的な地形であったため、周辺よりセム語系やインド=ヨーロッパ語系の遊牧民や、山岳民が侵入を繰り返し、国家の興亡が激しかった。(参考文献: 詳説世界史研究)
紀元前4000年紀
ティグリス・ユーフラテス両河は、水源地帯の雪解けによって毎年定期的に増水するので、メソポタミアでは灌漑・排水施設を整備してこの水を利用すれば、非常に豊かな農業生産が可能であった。紀元前4000年紀の中ごろより、両河下流の沖積平野では人口が増加し、神殿を中心とした大村落が数多く成立し、銅や青銅器なども普及し始めた。文字が発明されたのもこのころである。
民族系統不明のシュメール人の他に、紀元前4000年紀セム語族のアッカド人、アッシリア人らがメソポタミアに移動してくる。
シュメール人とセム語系諸族
紀元前3000年紀
シュメール人の都市国家形成
紀元前3000年ころになると、余剰生産物の増加に伴って、農業や牧畜に直接従事しない神官・戦士・職人・商人などが増え、大村落は都市に発展した。最初の都市文明建設者はシュメール人で、紀元前2700年ころまでには両河の河口付近に彼らの都市国家が多数形成された。
ウル・ウルク・ラガシュなどがその代表であり、紀元前25世紀ころのウル第1王朝時代に全盛期を迎えた。
各都市は周囲を城壁で囲まれ、中心部にはジッグラトのそびえる守護神をまつる神殿があった。都市はこの神が支配すると考えられ、最高の神官を兼ねた王が神の名のもとに神権政治をおこなった。
土地は原則としてすべて神のものとされ、市民は神殿共同体に属し、神殿におさめられた税を保管する神殿倉庫は国庫の役割を果たした。
外国との貿易も神殿が独占し、戦争も神の名においてされた。しかしやがて支配者の軍事的役割の増大とともに、王権の性格はしだいに世俗的なものとなり、それにともなって神殿と利害の対立した王が、神官勢力の特権を抑えようとすることもあった。
各都市国家は、大規模な治水や灌漑によって農業生産を高め、交易によって必要物資を入手し、豊かな経済力をもとに壮大な神殿・宮殿・王墓をきずいて、高度な文明を発達させた。しかし都市間にくりかえされた覇権をめぐる戦争に加えて、周辺の山岳民や遊牧民の侵入をうけて各都市の勢力は衰え、やがて北方に興隆したセム語系のアッカド人によって征服されてしまった。
サルゴン(アッカド王)メソポタミアの都市国家軍を統一
アラビア方面よりメソポタミアに移動したセム語系諸族のうち、中部地方に定着したアッカド人は、紀元前24世紀のサルゴン1世のときに、メソポタミアの都市国家軍の統一に成功した。このメソポタミア最初の統一国家は、さらにシリアや小アジアやアラビアにまで支配の手を伸ばしたが、約1世紀後に東方の山岳民の侵入をうけて滅んだ。
紀元前3000年紀の末になると、ウル第3王朝のもとで一時シュメール勢力の復興がみられる。しかしやがて、シリア砂漠よりセム語系遊牧民のアラム人が大挙してメソポタミアに侵入した。彼らは紀元前19世紀には、バビロンを都とする古バビロニア王国(バビロン第1王朝)を樹立し、紀元前18世紀の第6代王・ハンムラビのとき、全メソポタミアを統一して中央集権国家に発展した。
ハンムラビ王は運河の大工事をおこなって治水・灌漑を進める一方で、シュメール法を継承して集大成したハンムラビ法典を制定して、領内の多民族統一支配に努めた。282条からなるこの法典は他分野にわたる規定を設けているが、とくに刑法は「目には目を、歯には歯を」の復讐法の原則と、身分によってことなった刑罰を課す身分原理に立っているのが注目される。
紀元前2000年紀
インド=ヨーロッパ語系民族の進出
現住地とされる中央アジアや南ロシアより紀元前2000年紀初頭に移動を開始したインド=ヨーロッパ語系民族は、他の民族(民族系統不明のフルリ人も、この時期に東方より北メソポタミアに進出し、その後各地に広がって、インド=ヨーロッパ語系の民族がたてた諸王国の人口の重要な部分を占めるようになった。)も巻き込んでオリエントに波状的に侵入した。馬(オリエント世界に初めて登場)にひかせた戦車で編成された彼らの軍隊は、その優れた機動力をいかして先住民をつぎつぎに撃破し、各地に征服国家をたてた。これによて、エジプトも含めてオリエントの各地方の接触が促され、1つの世界としての『古代オリエント』が形成される道が開けた。
紀元前15世紀のオリエント
まず紀元前19世紀ころに小アジアのアナトリア高原に移動した一派は、先住諸民族を従えてヒッタイト王国をたてた。
紀元前1650年ころにはハットゥシャを都とする強力な帝国に成長し、紀元前16世紀の初めには古バビロニア王国と争ってこれを滅ぼした。最盛期は14世紀で、南進してミタンニ・エジプトと抗争した。なかでも紀元前13世紀の初頭、北進してきたエジプト新王国のラメセス2世と、シリアの覇権をめぐって争ったカデシュの戦いは有名である。彼らが軍事的に強大化したのは、馬と戦車に加えて鉄製武器を使用したことによる。紀元前12世紀初めに、当時東地中海全域を巻き込んだ民族大移動の波の中で、バルカン方面から来襲した民族によって滅ぼされたが、これ以降、それまでヒッタイトに独占されていた製鉄技術が、オリエント各地に普及するようになった。
古バビロニア王国が滅んだあとには、東方山地よりインド=ヨーロッパ語系民族の別の派であるカッシート人が侵入し、王国(バビロン第3王朝(バビロン第3王朝(カッシート王国、カッシュ朝等とも)と呼ばれ、バビロニアの歴史上最も長く続いた王朝であり、また当時エジプト、ヒッタイト、ミタンニ等と並ぶ強国として勢力を振るった。))をたててメソポタミア南部を約400年間支配した。また他の一派はフルリ人とともにミタンニ王国を形成し、紀元前15世紀から次の世紀の半ばまで、メソポタミア北部から北シリアにかけて強い勢力を張った。こうしてオリエントでは紀元前2000年の半ばに、エジプトの新王国も含めて諸王国が並立する複雑な政治状況が生まれたが、その後、紀元前1200年前後に上に記した民族大移動の波が東地中海を襲うと、混乱はさらに大きなものとなった。しかしやがて、その中から新たな勢力が台頭し、オリエント世界の新しい秩序が形作られていくのである。
紀元前2000年頃 フルリ人(民族系統不明)の圧力により、セム語族のアムル人が紀元前22−21世紀にメソポタミアを統一したウル第3王朝へ移動、同じ頃エラム人もウル第3王朝に侵入し、紀元前2000年頃ウル第3王朝は滅亡する。
紀元前1830年から アムル人のハンムラビ王がメソポタミアを統一しバビロン第1王朝を築き、ハンムラビ法典によって法の整備をするが、ハンムラビの死後、ヒッタイトの奇襲攻撃を受けてバビロン第1王朝は壊滅する。ヒッタイトは領土的野心が無かったため、略奪後引き返し、傭兵・農業労働者として移住していたカッシート人が奪還した。