モンゴルのビルマ侵攻( A.D.1277〜A.D.1287)
元朝のフビライの遠征軍が領土拡大をめざし、ビルマのパガン朝におこなった侵攻。パガン朝は首都を寺塔で埋め尽くされるほど仏教寺院を建造し国力を消耗していたため、度重なる侵攻で衰え、ほどなく滅亡した。元緬戦争ともよばれる。
モンゴルのビルマ侵攻
戦争データ
年月日:1277年、1283年、1287年 | |
場所:ビルマ | |
結果:モンゴル(元朝)の勝利。パガン朝は滅亡。 | |
交戦勢力 | |
元朝 | パガン朝 |
指導者 | |
Nasr al-Din (Yunnan) シャンウダル エセン・テムル |
ナラティーハパテ チョウスワー ティハトゥ |
戦力 | |
1277年 12,000人 1283年 10,000人 1287年 7,000人 |
20,000人の歩兵 200頭の戦象 |
損害 | |
パガン軍より少数 | 元軍より多数 |
参考 Wikipedia
パガン朝滅亡
かつては隆盛を極めたパガン朝であったが、1253年にはビルマ北部にあった大理国がモンゴル帝国の手に落ちたことにより、その存在が脅かされはじめた。過度の寺院への寄進によって財政は悪化し、王家と姻戚関係によって王宮内での影響力を強め、ミンザイン王国に軍事力を有するシャン族の3兄弟、アサンカヤー、ヤーザティンジャン、ティハトゥの台頭が始まった。
1277年に元朝はパガン朝に贈った朝貢を求める使者が行方不明であることと、臣従先をパガンから元に乗り換えた金歯族がパガンの攻撃を受けていることを理由に軍を派遣し威嚇攻撃した。その後もナラティーハパテが、元に対し従順を見せなかったため、元は1286年に雲南王フゲチの子である雲南王エセン・テムルを征緬副都元帥として派遣した。翌1287年のパガンの戦いで、ナラティーハパテはパガンを放棄して南ビルマのパテインに逃亡、パガンは陥落し、モンゴル軍撤退の条件として元への朝貢を承諾した。
パガンへの帰還の途上でナラティーハパテは庶子ティハトゥに毒殺され、ナラティーハパテの長子ウザナと庶子ティハトゥも後継者争いで落命、生き残ったナラティーハパテの子チョウスワーが即位した。チョウスワーは元に対して朝貢を行って王位を認められるが、独自に使節を送っていたシャン族のアサンカヤーも元から璽を与えられ支配権を認められていた。また、1281年前後からビルマ南部の港湾都市モッタマで反乱が起きており、1287年にモン族のワーレルーがスコータイ朝の後援によってモッタマにペグー王朝を打ち立てていた。1299年頃、シャン族の3兄弟とナラティーハパテの妃ソウの共謀でチョウスワーは廃位され、その子ソウニッが王に擁立される。
大都に亡命したソウニッの兄弟の要請によって1301年にビルマにモンゴル軍が侵入するが、アサンカヤーは防衛に成功、アサンカヤーの勝利は碑文の記録でも称賛される。3兄弟に擁されたソウニッは実権を有さない名目だけの王であり、1314年にパガン王家に代々伝わる金帯と金盆がティハトゥに送られたことで王朝は名実共に滅亡した。譲位後ソウニッはパガンのミョウザー(地方知事)に任ぜられるが、1369年にその子ウザナ2世が没した時にパガン王家の男子継承者は断絶した。
参考 Wikipedia