ルイ16世(フランス王)(
A.D.1754〜A.D.1793)
フランス王国ブルボン朝第5代、アンシャン=レジーム最後のフランス国王(在位1774年〜1792年)。アメリカ独立戦争の介入で極度に悪化した財政の改革のため、チュルゴやネッケルらの改革派を登用したが、王妃マリー=アントワネットに支持された特権身分の反対に遭い、改革は挫折。フランス革命を招いた。1792年王政は廃止され、翌年国民公会の決定により処刑された。
ルイ16世(フランス王)
実は急進的な改革派
1789年7月14日、夜半。侍従に起こされ市中の様子を聞かされたルイ16世は、尋ねた。「暴動かね?」「いいえ陛下、暴動ではございません。革命でございます」この有名なエピソードは、浮世離れした王の愚かさを強調するため流布された作り話といわれている。確かに善良で優柔不断なところはあったが、愚かではなかった。そして、なかなかに革命的な人物だったようだ。
即位と同時に財政改革に着手し経済学者テュルゴーや銀行家ネッケルを大臣に起用、特権身分への課税を試み、イギリスを抑えるためアメリカ独立戦争を支援し、人権思想に基づいて拷問を廃止する王令を布告した。保守派が猛反発すると、抑え込みのために三部会を招集。これは貴族と聖職者に、第三身分と呼ばれた平民の代表も加えたラディカルな会議で、開催は174年ぶりである。ところが皮肉にも、王が招集した第三身分が「国民議会」を自称し、革命の中心組織となった。このような手を打ちながらも保守派の攻勢に踏ん張りきれなくなった王は、改革派のネッケルを罷免する。ネッケルに期待を寄せていた民衆は激怒、バスティーユ牢獄襲撃に立ち上がる。結果論ではあるが、革命派を組織し、革命の引き金を引いたのは、ルイ16世だったといえないこともないのだ。
王になりたくなかった王
趣味は狩りに左官に錠前づくりと、人とは接しないものばかりだった。職人仕事で汚れた手と乱れた髪。そんな姿を嫌った妻のマリ・アントワネットから「別の趣味をお持ちあそばせ」と人前で非難されることすらあった。ある大臣が辞任を申し出たときは「そなたはよいな。余も王であることを辞めたいものだ」と漏らしたという。1791年、フランス初の憲法ができると王は受け入れる。神から授かったとされる王権は国民が認めた王権に代わり、ルイは歳費を給与される官吏となった。彼がギロチンにかけられる1年半前のことである。
欧米における近代社会の成長
フランス革命とナポレオン
王政の危機
ルイ14世(フランス王)以来宮廷の浪費や戦費、貴族たちへの年金などで支出が増え、フランスの財政は赤字を累積していった。アメリカ独立戦争の援助の20億リーブルも加わり、革命直前には財政は危機に瀕していた。ルイ16世(フランス王) LouisXVI(位1774〜92)は重農主義経済学者のジャック・テュルゴー Turgot(1727〜81)、スイスの銀行家のネッケル Necker(1732〜1804)などを財務長官に起用して財政改革を試みた。しかし、特権身分への課税という改革案は、聖職者や貴族の代表からなる名士会に拒否され、高等法院や貴族の反抗を招いた。彼らは、特権身分の立場から、王の絶対権を制限しようと、1614年以来開かれていなかった全国三部会の招集を要求した。第三身分の異議申し立てもこれに加わった。結果として、国王は彼らの間からでた三部会招集の要求を承認することとなった。財政の危機は王政の危機につながった。
革命のまえのフランスでは経済危機も深刻化していた。ブドウ酒の生産過剰がブドウ栽培業者に打撃を与え、気候の異常が1788年の穀物の不作を招き、1786年の英仏通商条約はフランス工業の不振の原因をつくった。
革命の勃発
国王の側近は国王に強硬な態度をとらせようとした。国王はヴェルサイユに軍隊を集結させ、財務長官ネッケルを罷免した(7月11)。温厚で優柔不断なルイ16世(フランス王)には、断固たる方針も戦略もなかったが、軍隊による威嚇を感じたパリでは、市民の騒ぎが過熱していた。パレ=ロワイヤル界隈では扇動者が市民に武装を呼びかけていた。7月12日、デモは武器製造所の略奪や入市税関署の放火などの騒乱に変わり、秩序維持のため都市民兵(国民衛兵)が編制された。7月14日群衆は廃兵院で小銃と大砲を奪い、武器と弾薬があると思われたバスティーユ監獄 Bastille を襲撃した(バスティーユ牢獄襲撃)。監獄が占拠されたあと革命最初の虐殺がおこなわれ、バスティーユ司令官・パリ市長などが犠牲となった。
1789年7月14日、パリ市民が圧政の象徴であったこの牢獄を攻撃して囚人7人を解放し、司令官と市長などを殺害した。
革命の進展
国王が8月の法令の裁可を遅らせ、パリの食糧事情が悪化したことで、10月4日〜5日にまた民衆の行動がおこなわれる。国王にパンを要求するパリの中央市場、場末街の女性たちはこの日パリからヴェルサイユ行進し、宮殿に乱入、国王一家をパリに連れ帰った。国民議会もパリに移り、国王と議会はパリの革命的な民衆の監視下におかれることになった。
91年宮廷と議会の間の調停にたっていた穏健派のミラボーが病死すると、革命の急進化に不安をもったルイ16世(フランス王)とその一家は、6月20日パリを脱出し、王妃マリ=アントワネット Marie Antoinette (1755〜1793)の母国オーストリアへの亡命をはかった。しかし、国境近くのヴァレンヌ Varennes でこの逃亡は発覚し、国王一家はパリに連れもどされた(ヴァレンヌ逃亡事件)。民衆は国王への不信をつのらせた。
立憲議会の成立と戦争の開始
7月25日、プロイセン軍司令官ブラウンシュバイク公はコブレンツで宣言を発し、フランス国王に危害が加えられればパリ市を破壊する警告した。この宣言は王政の瓦解を早める結果となった。ジャコバン=クラブとパリの各地区の市民は国王の廃位を要求し、8月10日パリ民衆と義勇兵は、テュイルリー宮殿を攻撃し、宮殿を警護していたスイス衛兵は惨殺された。民衆の圧力に屈し、議会は王権を停止し、普通選挙による憲法制定議会すなわち国民公会の招集を布告した。ルイ16世はタンプル宮に幽閉された。
第一共和制の成立と内外の危機
国民公会で国王の裁判が始められた。国王は公的自由に対する陰謀と国家の安全の侵犯により、数名の棄権をのぞき満場一致で有罪とされた。モンターニュ派の提案した国王の死刑は可決され、ジロンドが提案した死刑執行延期は否決された。1793年1月、革命広場(のちのコンコルド広場)でギロチンによるルイ16世の処刑がおこなわれた。
同時代の人物
松平定信(1758〜1829)
白河藩主。世界規模の凶作がフランスに革命を、日本に天明の大飢饉をもたらした際、率先して質素倹約、窮民の救済に努め、結果、餓死者を出さずに済んだ。