レキシントン・コンコードの戦い
レキシントンの戦い(WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

レキシントン・コンコードの戦い


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レキシントン・コンコードの戦い (1775.4.19)

アメリカ独立戦争の発端となった、ボストン近郊のコンコードにある植民地側の武器弾薬庫の接収にむかった本国軍と、ミニットマン(現地住民の民兵)との武力衝突。どちらが先に発砲したかはは不明だが、植民地側のニュースはいちはやく、イギリス側が仕掛けたものとしてイギリス軍の残虐行為とイギリスに反抗した人々の「英雄的な戦い」が伝えられ、植民地民衆の心を奮い立たせた。

レキシントン・コンコードの戦い

アメリカ独立戦争におけるイギリス本国軍とアメリカ植民地軍との最初の戦い。1775年4月、本国の植民地政策に反抗する愛国派は、マサチューセッツ湾植民地ボストン近郊のコンコードに武器、弾薬を集めた。4月18日ボストン駐屯イギリス守備隊司令官T.ゲージは、愛国派指導者の逮捕と、コンコードの武器庫破壊のため、F.スミス大佐の率いる正規軍の分遣隊約700人を派遣した。愛国派のP.リビアとW.ドーズの急報によって出発したJ.パーカーの率いる植民地民兵が、翌19日イギリス軍先発隊とレキシントンで衝突。さらにコンコードへ進出したイギリス本隊をノースブリッジで植民地民兵約400人が攻撃。イギリス軍は増大する民兵に攻撃されながら、救援軍の助けでボストンへ帰還した。死傷者はこの1日で植民地側95人、イギリス側273人。アメリカ独立戦争の導火線となった戦い。

参考 ブリタニカ国際大百科事典

戦争データ

年月日:1775年4月19日
場所:レキシントン、コンコード
結果:アメリカ植民地民側の勝利
交戦勢力
植民地民兵 イギリス
指導者
ジョン・パーカー
ジェイムズ・バーレット
ウィリアム・ヒース
フランシス・スミス
ジョン・ピトケアン
ウォルター・ローリー
パーシー伯爵

参考 Wikipedia

欧米における近代社会の成長

アメリカ独立革命

独立戦争の開始と独立宣言

1775年4月、本国軍と植民地民兵の最初の武力衝突がボストン郊外のレキシントンとコンコードでおこった(レキシントン・コンコードの戦い)。植民地側の武器弾薬庫の接収にむかった本国軍と、ミニットマンと呼ばれる現地住民の民兵の衝突であった。

この直後の5月、第2回大陸会議がフィラデルフィアで開かれ、大陸軍が組織され、ジョージ=ワシントン(1732〜1799)が最高司令官に任命された。

ヨークタウンの戦い 戦争の経過とパリ条約 北アメリカの植民地 13植民地地図
13植民地地図 ©世界の歴史まっぷ
レキシントン・コンコードの戦い

アメリカ独立戦争の発端となったのが1775年4月18日、ボストン郊外のレキシントンとコンコードで、植民地人が redcoats と呼んでいたイギリス正規軍と植民地人のミニットマンの間でおこった武力衝突である。コンコードの農民がひそかに火器を貯えているとの情報をえたイギリスのゲージ将軍が、その軍事品貯蔵庫を破壊するため、700人の部隊を派遣した。レキシントンではこれに対抗しようとした植民地人の一団と小競り合いがあり、コンコードで捜索を済ませて帰るイギリス軍に植民地側のミニットマンがゲリラ的銃撃を浴びせたのである。この事件でどちらが先に発砲したかは明らかではない。しかし、植民地側のニュースはいちはやく、衝突はイギリス側が仕掛けたものとした。イギリス軍の残虐行為とイギリスに反抗した人々の「英雄的な戦い」がことこまかに語り伝えられ、植民地民衆の心を奮い立たせたのである。ニュースは植民地側の連絡網をつうじて流布された。すでに、植民地側のプロパガンダの環を広げるため、各地に「通信連絡委員会」が設立されていた。

ミニットマン:農民の民兵で、1分間の予告でいつでも戦闘に馳せ参じるというところから minuteman と呼ばれた。
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