ロベルト・イル・グイスカルド (1015年〜1085年)
11世紀から12世紀にかけて、東ローマ帝国、ローマ教皇、ドイツ皇帝などまざまな勢力が割拠する中、イスラーム勢力の侵入が脅威だった南イタリアが、ノルマン人の活動によって統一されていった(ノルマン人による南イタリア征服)時に、南イタリアを制圧したノルマン人傭兵。1059年に正式にローマ教皇によってプッリャ・カラブリア公爵に封じられた。フランス語名はロベール・ギスカール。
弟のルッジェーロ1世はシチリア島のイスラーム勢力を撃退し、シチリア伯の称号を得た。ローマ教皇は、ルッジェーロ1世の子のルッジェーロ2世にシチリアと南イタリアにまたがる両シチリア王国の国王の地位を認め、ノルマン朝(オートヴィル朝)を開いた。
息子のボエモン1世は第1回十字軍に参加し、アンティオキア公国を建てた。
ロベルト・イル・グイスカルド
当時の共通語であるラテン語ではロベルトゥス・グイスカルドゥス(Robertus Guiscardus)。イル・グイスカルドとは「狡猾な人」を意味する呼び名である。
生涯
南イタリア攻略
ノルマン人のタンクレード・ド・オートヴィルの六男として生まれる。
オートヴィル一族は当初傭兵などをやっていたが、やがて南イタリアのアラブ領や東ローマ帝国領を攻略するようになり、ロベルトの兄達は1042年にイタリアのプッリャ伯になった。
ロベルトは、1047年にノルマンディーを出てイタリアのロンバルディアに向かった。その時は5人の騎士と30人の従者を連れただけで、しばらく山賊のようなことをやっていたが、やがて1057年、兄の後を継いでプッリャ伯となり、弟のルッジェーロ達と共にカラブリア、シチリア等の諸都市を征服していった。
ニコラウス2世(ローマ教皇)は、神聖ローマ皇帝との争いに備えて、これらのノルマン騎士を手なずけるため、1059年にロベルトをプッリャ、カラブリア、シチリアに正式に封じた。但し、いまだこの地方はサラセン人や東ローマ皇帝領が点在していた。
その後、1076年までに弟と共にシチリアと南イタリアの多くを征服した。当時アラブ人に支配されていたメッシーナを攻略中に、当時拠点にしていたメルフィが1061年1月に東ローマ帝国のコンスタンティノス10世ドゥーカスの軍に囲まれた。ロベルトは全軍を戻して再奪取に当たり、カラブリアの平定に成功した。
1072年にロベルトはシチリアをルッジェーロ1世に譲り、自身はプッリャとカラブリアを支配した。(プッリャ・カラブリア公)
ローマ人との戦い
1081年に東ローマ帝国征服を目指し、アレクシオス1世コムネノス(東ローマ皇帝)の軍を破り、コルフとアルバニアを占領したが、叙任権問題のこじれによりハインリヒ4世(神聖ローマ皇帝)にサンタンジェロ城を包囲されたグレゴリウス7世(ローマ教皇)の救出に呼び戻された。
ロベルトの接近によりハインリヒ4世は撤退したが、後を追い、1084年5月にローマに入城し略奪を行った。この間に、ギリシアを占領していた息子のボエモン1世(アンティオキア公)が占領地を失ったため、再び東ローマ遠征を行ったが、1085年7月15日に熱病で亡くなった。
家系
弟にシチリア伯ルッジェーロ1世、甥に初代シチリア王ルッジェーロ2世がいる。結婚は2回で、息子は4人、娘は6人いる。初めはブルゴーニュ伯ルノー1世の娘アルベラダと結婚し、1男1女をもうけた。
- ボエモン(1058年頃 – 1111年) – 第1回十字軍参加、ボエモン1世(アンティオキア公)
- エマ – 善良侯オドンと結婚し、アンティオキア公国摂政タンクレード(ガリラヤ公)の母となった。
アルベラダと離別後、サレルノ侯グアイマーリオ4世の娘シケルガイタと結婚し、3男5女をもうけた。
- ルッジェーロ・ボルサ(1060/1年 – 1111年) – ルッジェーロ1世(プッリャ公)
- グイド(1061年頃 – 1108年) – アマルフィ公
- ロベルト・スカリオ(1068年頃 – 1110年)
- マファルダ – バルセロナ伯ラモン・バランゲー2世と結婚、子孫はアラゴン王に即位、ペドロ3世(アラゴン王)はシチリア王にもなった。16世紀にスペイン・神聖ローマ帝国・イタリアの大半を支配したカール5世(神聖ローマ皇帝)も子孫である。ラモン・バランゲー2世の死後ナルボンヌ副伯エメリ1世と再婚、エメリ2世を産む。
- マビリア – ギヨーム・ド・グランメニルと結婚
- エリア – メーヌ伯ユーグ5世と結婚(のち離婚)
- シビラ – ルシー伯エブル2世と結婚、娘マビーユはヤッファ伯ユーグ1世・デュ・ピュイゼと結婚
- オリンピア – ヘレナと改名し、東ローマ皇帝ミカエル7世ドゥーカスの子コンスタンティノスと婚約するが、ニケフォロス3世ボタネイアテスにより修道院へ入れられた。