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ロンバルディア同盟


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ロンバルディア同盟( A.D.1164〜A.D.1250)

フリードリヒ1世(神聖ローマ皇帝)(赤髯王)の帝権伸長の意図に対抗して、イタリアのロンバルディア地方の諸都市が自治権防衛のために1167年に結成した都市同盟。

ロンバルディア同盟

ヨーロッパ世界の形成と発展

西ヨーロッパ中世世界の変容
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都市の自治権獲得

北イタリアのロンバルディア諸都市では、ドイツ皇帝のイタリア南下政策(イタリア政策)に対抗し、12世紀から13世紀にかけて、2度にわたりロンバルディア同盟を結んだ。だが、その規模と期間の長さにおいて、ロンバルディア同盟をはるかにしのぐのが、13世紀から17世紀まで存続した北ドイツのハンザ同盟である。
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詳説世界史研究

概要

フリードリヒ1世(神聖ローマ皇帝)(赤髯王)の帝権伸長の意図に対抗して、イタリアのロンバルディア地方の諸都市が自治権防衛のために結成した都市同盟。
フリードリヒ1世(神聖ローマ皇帝)は 1154年以来コムーネに侵害されてきた皇帝特権の回復を目指し、たびたびイタリア遠征を敢行した。これに対して諸都市はその脅威を解消するため、まずベネチアが諸都市に呼びかけ、1164年ベロナ同盟を結成。次いで1167年皇帝の第4次遠征に際して、ロンバルディアの諸都市が第2の同盟を結成し、2つの同盟を合体してロンバルディア同盟とした。フリードリヒ1世(神聖ローマ皇帝)と対立していたアレクサンデル3世(ローマ教皇)の支援も受け1176年レニャーノの戦いで皇帝軍に勝利を収め、1183年コンスタンツの和議で皇帝の形式的宗主権を認める代りに、諸都市の自治権を回復することに成功した。 1226年に再結成されてフリードリヒ2世(神聖ローマ皇帝)と対抗したが、同盟諸都市間の利害は複雑で内部的連帯は必ずしも強固ではなかった。

参考 ブリタニカ国際大百科事典

歴史

北イタリアの支配を図ったホーエンシュタウフェン朝のフリードリヒ1世(神聖ローマ皇帝)に対抗し、ローマ教皇の支援を受けて結成され、教皇党と皇帝党の抗争における教皇派(ゲルフの中心となった。加盟都市はミラノ、クレモナ、ボローニャなどであるが、時期によって変動がある。軍事同盟として発足したが、のちには経済同盟の性格も持つようになった。

1226年、フリードリヒ1世(神聖ローマ皇帝)の孫にあたるフリードリヒ2世(神聖ローマ皇帝)が北イタリアに侵攻した際に再度結成される(第二次ロンバルディア同盟)。1250年にフリードリヒ2世(神聖ローマ皇帝)が死去すると、同盟も消滅した。

フリードリヒ1世のイタリア政策

ホーエンシュタウフェン朝のフリードリヒ1世(神聖ローマ皇帝)(赤髭王、バルバロッサ。在位:1152年 – 1190年)は、イタリア政策に意を注いだ皇帝であった。1154年、最初のイタリア遠征を行い、1155年にハドリアヌス4世(ローマ教皇)(在位:1154年 – 1159年)から帝冠を授けられたが、イタリアの支配をめぐって教皇と対立するようになり、1158年以来4度にわたるイタリア遠征を繰り返した。

  • 1158年 フリードリヒ1世(神聖ローマ皇帝)は、ピアチェンツァ郊外のロンカリアで開催した帝国議会において、北イタリアを直接支配のもとに置くことを宣言。各都市が置いたポデスタを廃して自らの代官に置き換えようとした。
  • これに対して1164年、ヴェローナ、パドヴァ、ヴィチェンツァ、ヴェネツィア共和国はヴェローナ同盟を結成した。ロンバルディア同盟は、ヴェローナ同盟を受け継ぐ形で、アレクサンデル3世(ローマ教皇)(在位:1159年 – 1181年)の後援を受けて結成された。教皇はイタリアにおける皇帝の勢力が後退することを望んでいた。
  • 1167年12月1日 ポンティーダ(現在はベルガモ県所属)にあるポンティーダ修道院において「ポンティーダの誓約」が行われ、ロンバルディア同盟が結成された。このとき参加した都市は、ヴェローナ同盟加盟都市(ヴェローナ、パドヴァ、ヴィチェンツァ、ヴェネツィア共和国)のほか、クレーマ、クレモナ、マントヴァ、ピアチェンツァ、ベルガモ、ブレシア、ミラノ、ジェノヴァ、ボローニャ、モデナ、レッジョ・エミリア、トレヴィーゾ、ヴェルチェッリ、ローディ、パルマ、フェラーラである。同盟には、オビッツォ・マラスピナ侯爵や、トレヴィーゾ辺境伯エッツェリーノ3世・ダ・ロマーノなどの諸侯も参加した。
  • 同盟は、神聖ローマ帝国からの分離独立を求めたわけではないが、皇帝の権力に対して公然と挑戦した。フリードリヒ1世(神聖ローマ皇帝)は、これらの都市、特にミラノ(これより以前、1162年に占領・破壊していた)に対抗しようと努めた。
  • 1176年5月29日、ロンバルディア同盟はレニャーノの戦いでフリードリヒ1世(神聖ローマ皇帝)の軍勢を打ち破った。
  • 1177年、ヴェネツィア条約が結ばれ、1178年8月から1183年まで6年間の停戦が成立した。

コンスタンツの和議

  • 1183年に結ばれたコンスタンツの和議で、イタリアの諸都市は皇帝に忠誠を誓う一方、皇帝に都市の自治を認めさせた。この時期、ミラノは皇帝に支援され、同盟の中で特別な地位を占めるようになった。このことは同盟の他の都市、とくにクレモナとの衝突を引き起こした。
  • 1197年 フリードリヒ1世の息子であるハインリヒ6世(神聖ローマ皇帝)(在位:1191年 – 1197年)が死去。ハインリヒ6世の幼少の遺児であるフリードリヒ2世と、ヴェルフ家のオットー4世(ローマ王在位:1198年 – 1209年、ローマ皇帝在位:1209年 – 1215年)との間で、帝位をめぐる争いが続いた。同盟はその後数回更新され、同盟は再びその名を挙げた。
  • フリードリヒ2世(神聖ローマ皇帝)は、1215年にローマ王として戴冠、1220年にローマ皇帝として戴冠した。

第二次ロンバルディア同盟

  • 1226年 フリードリヒ2世(神聖ローマ皇帝)は、第6回十字軍(破門十字軍、実行:1228年 – 1229年)に備えてイタリア諸侯を召集すべく、イタリアに出兵した。ロンバルディア同盟は再びこれに対抗した。
  • イタリアにおいてより大きな権力を得ようとする試みを妨げられたフリードリヒ2世(神聖ローマ皇帝)は、ロンバルディア同盟に対し帝国アハト刑(帝国アハト刑に処せられた者は、帝国内における全ての法的権利や財産を剥奪される。受刑者は基本的に死人とみなされ、誰との交流もできず、援助もされない。恩赦によってのみ救済され得る過酷な刑罰)を宣告した。
  • フリードリヒ2世はヴィチェンツァを奪還し、1237年のコルテヌオーヴァの戦いで勝利を収めて、戦略家としての名声を高めた。しかしながら、ミラノからの和平提案を退け、ミラノの無条件降服に固執したことは、フリードリヒ2世の判断の誤りであった。ミラノは他の5都市と連合して徹底抗戦を続け、結局1238年10月、フリードリヒ2世はブレシアの包囲を解いて撤退しなければならなかった。
  • その後もロンバルディア同盟は、グレゴリウス9世(ローマ教皇)(在位:1227年 – 1241年)の支持を得てフリードリヒ2世と対抗した。
  • 1248年のパルマの戦いにおいて同盟側は皇帝の本営を襲撃・略奪し、続く戦いで皇帝軍を敗走させた。
  • 1250年にフリードリヒ2世(神聖ローマ皇帝)が死去。その後、神聖ローマ帝国がイタリアに影響を及ぼすことは少なくなっていく。

参考 Wikipedia

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